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霜焼

身震いするほどの寒さが、床につこうとする脳を圧迫する。降りた霜が指を、皮膚を、肺を焼く。生ぬるい火鉢では消えないような自然の暴力が容赦なく命を奪いに来る。温もりを求めた腕が空を切り、冷え切った脳に追い打ちをかける。
隣に居た温もりはもうない。
温もりはいつまでも続くものだと、そう思っていた。

食事の材料を集めに行った時、随分と特異な恰好をした少女が倒れていた。彼女は山に生きるものではないのだろう。自然を理解していない者はこうして自然に侵され、消える。なんてことはない日常のはずだったが、どういう風の吹き回しか私は籠の中身をすべて放り出し、小柄な少女を乗せた。

寝床に少女を横にし、保存食の中から今日の食事を適当に見繕う。少し冷えそうな今日は生姜を多めに入れよう。貰い物だが干物も今日使ってしまおう。
「あの…」
そんなことを考えていると、不意に背後から柔らかい声がした。振り向くと横になっていた少女が柱にもたれながらこちらを向いている。
「助けていただいてありがとうございました。」
「おいおい、まだアンタは助かってないぞ。そんな状態で歩いてたらまた倒れちまう。さっさと飯食って、今日は早く寝るんだ。」
随分と聡明で律儀な少女だ。目覚めたら知らない天上の下で知らない男がいるというのに、自分の体に鞭打って感謝を伝えに来たのだ。
とりあえず少女をまた横にし、急いで夕飯を作った。少女に食事を持っていくと、またいたく感謝された。礼はいらない、困ったときはお互い様だ。昔父親がよく言っていた言葉をそのまま少女に伝えると、彼女は少し微笑んでゆっくりと食事を口に運び始めた。

次の日、私は少女の看病をするため仕事を休む旨を皆に伝えた。今日は熊を借りに行く予定だったが、若いながらも熊狩りの長男に生まれた経験豊富な私が許可なく休むわけにはいかなかい。皆は一瞬目を丸くして、それから大きく笑った。あまり女っ気がない私をからからかっているのだ。気恥ずかしくなってすぐにその場を離れた。
家に帰ると、少女は目を覚ましていた。具合を聞くとだいぶ良くなったというが、まだ顔は少し赤い。もう少し休んでいろ、眠れないなら白湯を持ってくるから横になっていろと伝えた。白湯に少しの柚子と生姜を加え少女の元に持っていく。慌てて飲んでむせる少女にゆっくりでいいからと伝え、彼女の枕元に座った。
どうしてあんなところで倒れていたのかと聞く。すると少女は笑いながら「家出ですよ」と答えた。なんでも彼女の家は相当裕福な家庭らしい。だがその反面、教育には厳しいところがあったそうだ。一位になれ。周りは敵だ。そう教えられ育ってきた少女には友人も恋人もできなかった。ある日学校の課題が終わらず一刻ほど帰るのが遅れてしまった時、父親は彼女をひどくぶったそうだ。その日堪忍袋が切れた彼女は衝動的に家を飛び出してしまった。そうして山に紛れ込んだ彼女は体力を失い、倒れてしまった。
私が何と声をかけるべきか悩んでいると彼女の方から予想外の言葉をかけられる。
「少しの間、ココにおいてもらえませんか?」
私は少し驚いた。箱入りの少女が山の生活をしたいと申し出ているのだから。当然私は断るつもりでいたのだが、思いとは裏腹の言葉がこぼれ出た。
「分かった。気が済むまでいるといい」

そうして少女との生活が始まった。もちろん年端もいかない少女に狩りや山菜採りをさせるわけにはいかないため、基本的には食事を作ってもらったり、風呂を沸かしてもらったり、掃除をしてもらったりといった雑用だ。彼女は飲み込みが圧倒的に早かった。飯も私が作ったものよりも繊細で優しい味がした。風呂も掃除も丁寧にやってくれた。はじめは感謝されていた私が、いつの間にか感謝する側になっていた。彼女に感謝を伝えればいつも「お礼はいりませんよ、困ったときはお互い様ですから」と笑いながら答えてくれた。
ある日、雪が降った。雪が降る山は危険だ。この日は熊ですらめったに出歩かない。私たちも例に漏れず家に籠っていた。霜が降り体を少しずつ蝕んでいくのが分かる。こんな日は早々に床につこう。そう彼女に提案し、火鉢を炊いてお互いの布団を用意していた時、彼女が顔を赤らめながらこういった。
「今日は寒いですし、一つの布団で寝ませんか」
私の顔はどうなっていただろう。降りた霜のせいだと誤魔化せないほど赤くなっていなかっただろうか?一人用の布団に二人分の温もりが閉じこもる。お互いの目が合う。もうすでに寒さは感じなくなっていた。恥ずかしそうに目を伏せる彼女をとても愛おしく思った。どちらからでもなく唇が重なる。その時だけは、この世のすべての時間が止まっていたように感じた。どれくらいの間そうしていただろうか。おもむろに唇が離れる。彼女の顔は霜を溶かすほど紅潮していた。きっと私もそうだったと思う。

そうして私たちは冬を越した。お互いの体を霜に侵されないよう身を寄せ合った。地を這う氷が解け始めた頃、ついに私たち、山に生きる者にとって一番危険な季節がやってきた。
冬眠から覚めた熊は餌を求め徘徊する。餌となるのは魚や鹿といった動物だけにとどまらない。私たち人間も例外ではない。人の身の数倍の体躯を持ち、人の数十倍の力を持つ彼らは容赦なく私たちの命を奪いに来る。だから私たちは彼らに命を奪われる前に、その命を奪いに行く。
その日は少し雨が降っていた。見張りの一人が、熊が罠にかかった報告をした。山での雨は非常に危険だが、この機を逃せば狩る機会はほとんどなくなると言って過言でない。仲間たちとの協議の結果、これ以上雨が強くならなければ狩りをすることに決定した。彼女にそのことを伝えるとひとこと「気を付けて」とだけ、だが深い不安をにじませながら伝えた。「必ず帰るよ」そう伝えて私は熊狩りに出かけた。
罠の地点に行くとやはり熊が暴れていた。罠から抜け出せず悶えているらしい。私は静かに背中から猟銃を取り出し、暴れる熊の脳天に標準を合わせた。炸裂音を最後に熊が沈黙する。仲間が熊の絶命を確認し、毛皮や肉、骨をはごうとしていたその時。唐突に雨が強くなった。空は暗雲が立ち込め、雷の前触れさえもが聞こえ始める。これほど雨が強くなってしまえば私たちにも命の危険が及ぶ。熊の解体は諦め私たちも急いで村に帰った。

雨の中を全力疾走したため体が冷えている。なんだか体もふらふらしている。家の玄関を開け弱弱しく「ただいま」と言ったが返事がない。寝ているのだろうか、それとも料理でもしているのだろうか、そう思い台所や寝床を探してみたがどこにもいない。最悪の想像が脳裏をよぎり、回る視界とぼやける思考に鞭打って玄関を開けた。

目が覚めると、知らない天上だった。顔を横に向ければ台所で誰かが何かをしている。よく見るとソレは熊狩りの仲間だ。私は昨日玄関先で倒れていたのを偶然薪をとりに来た彼に見つけられたらしい。私は自分の話も早々に切り上げ彼女のことを尋ねる。だが彼はそもそもそんなヤツは知らないと言った。憤慨で今にも掴みかかりそうになったが、体が思ったように動かず倒れこむ。彼が心配そうに、疲れて夢を見てるんだろう。ゆっくり眠って疲れをとるべきだ。と言ってくる。その表情がひどく真剣だったので、いったいどうすればいいのかわからなくなった。

3日ほど彼に面倒を見てもらい私は家に帰った。熊狩りの仲間やその家族、近所で遊んでいた子供たちにまで声をかけたがやはり、彼女の事など知らないという。私は混乱した。仲間はいまだに私が譫言を言っていると思っているようだった。

そうしてまた冬がやってきた。雪が降り、霜が降りても私の凍えを癒してくれるモノはない。一人用の布団に一人でくるまり、火鉢の淡い光と目が合う。指先が霜焼になっているのが分かった。
これは山に生きる命を理不尽に奪った罰なのか、それとも単に私の妄想の暴走だったのだろうか。あの霜を焼くような冬はまた巡ってくるのだろうか。指先の霜焼に皮肉を感じながら今日もまどろみの中に落ちる。

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