【試し読み】 2023年のストリップをめぐって

『ab- vol.2 ストリップの気分』より、武藤大祐・結城敬介・渡邉千尋の座談会を一部抜粋して掲載します。
本編にもインタビューを掲載している、踊り子ささきさちさんの演目『ムーブオン』を起点にした振り返りです。


言葉で言い表せないこと

結城 渡邉さんの印象に残った踊り子さんや演目は何ですか。
渡邉 去年に引き続きアゲハさんと小宮山せりなさんの二人を中心に、たまに乗るさゆみさんも相変わらず見に行って、という一年でした。で、ささきさちさんも、その三人と香盤が一緒になる機会が比較的多くて。この回! ということでいえば十結栗橋で見た『デート』。以前と比較すると振付を思いっきり遅取りにしていて、たっぷりと余裕のあるステージングがとてつもなく気持ちよかった。演目としても、五結大和初出しの『ムーブオン』は「ストリップ全体を通して好きな演目」になりました。
結城 渡邉さんのストリップ観の本質に触れるような演目ということ?
渡邉 そうです。これが見られたらもう今生は満足です、みたいな感じ(笑)ストリップにおいて感取される官能性って、非性器的な側面と明らかに性的といっていい惹起といずれもあると思いますが、ささきさんのステージを見ると、気持ち良くなってもいいんだ、と深く肯定感を得られるし、それは自分の欲望の多面性にじかに触れる機会でもある。生きててよかったって感じさせられますよね。あんまり関係ない話ですが、立ち上がりの曲が本当に好きで、朝にヘアアイロンとかの身支度するときずっとその曲を聴いてて……多分、年が明けてから三百回くらい聴いています。
武藤 すごい(笑)
結城 再帰的に演目の印象を強めていきますよね。
渡邉 普段から演目プレイリストを作って聴いていると、実際劇場で目にする際により高まった状態で見れるようなことってありますけど、『ムーブオン』は全然そういうことはなくて、都度新鮮に驚いている。初出しからしばらくは選曲の鮮烈さに惹かれてなのか、歌詞と紐づけて演目を見てました。今はもう全然歌詞が頭に入ってきていなくて、踊りの質感、場の質感をただ受け入れているような感じで見られていて、受け取り方も変わってきたなと。意味的なものではない。
結城 牧瀬さんの踊りを見る経験にも、非意味的な記述しがたさがある気がしますね。タイプは異なっているけど、ささきさんにも牧瀬さんや、あるいは友坂麗さんを想起する曰く言いがたさを感じる。舞踏的といいますか。
武藤 曲だけに則っていないというか、自分の中のテンポみたいなものをかなり操作しながら踊っている。舞踏的っていうのはすごくわかるんだけど、でも実際の舞踏ではまず味わったことのない異様に充実した時間が流れますね。舞踏はそもそも音に乗らないのに対して、ささきさんは音楽に乗りつつ、大胆にルバートをかけて、驚くほど曲から遠く離れたりする。「音楽に乗らない」ことを定型としてやってしまってるような舞踏にはない、豊穣な緊張感です。ささきさんのステージこそが今現在の舞踏だ、とか言ってみたくなる。
結城 十二結道劇の楽日も見に行ったのですが、ささきさんの『デビュー作』のラストなんて、曲が終わったあとの無音のまま、一分以上の時間をかけて本舞台に戻ったのではないかと……かつてよりさらにたっぷりと時間を使っていますね。
武藤 いっそ五分くらいやってほしい(笑)
結城 四周年作の『Showテラー』は初出し週ということもあるのか、そうした余白はあまりなかったですね。いやしかし、『Showテラー』も素晴らしかった。舞台に特異な力学が働いているかのような、こちらの予想を裏切るような動きが所々に仕掛けられている。たとえば冒頭で袖からテーブルを押し出すところも、最初は踏ん張ってようやく動くような重さということが示されるのに、突然急にフッとスムーズに動き出したりする。最初から何かが狂っている世界なのではないか(笑)
 さらに、パフォーマンス用のテーブルを押し出したということは、そこは「観客に見られるステージの上」と同義と思うのですが、その横でストレッチをしたり、手に「人」の文字を書いて飲み込んだり、あたかも出番前のような演技がなされる。空間も歪んでいるというか、レイヤーが重なっているというか。同様のシーンを、もっと演劇的に空間処理していた黒井ひとみさんの『10年目』と好対照だなと思ったりもしました。
武藤 ささきさんの作品の組み立ては直観的だよね。詩的な飛躍というか省略話法が絶妙で、ほぐして説明することがなかなかできない。
 ところで渡邉さんの「意味的なものではない」っていう話は、「お風呂の湯加減がよかった」みたいなもので、記述しようと思えばできるけど、満たされていたら何にも言う気にならないってことだよね。自分も、結城さんみたいには記述的に見られない、忘れちゃうし。
渡邉 去年は、対象をフォーマリスティックに見る、ということに関心がありました。昨年の座談会で挙げた細馬宏通さんの『うたのしくみ』の方法論のように、端から意味的な要素を拾っていって物語性を読み取ろうとするのではなく、まず目の前のできごとや素材をちゃんと見て記述する、ということですね。でも去年一番自分に響いたのは、言葉が届かない『ムーブオン』でした。
 ベルクソンが『記憶理論の歴史』という講義録で、表象を知覚するしくみについて、さまざまな記憶が合流して知覚と相補的に混ざり合うことで、表象をより強度をもって認識し明瞭に受け取ることができる、と説明しています。その中で、表象の新しさを受け取るには記憶の「しなやかさ」が必要だといっている。知覚によって惹起されたさまざまな記憶の集まりの輪郭というのはぼやけていて、そこにこそ新しさを受け入れる余地があるというんですね。これはステージの何らかの要素がエピソード記憶と結びついてノスタルジーを喚起する、みたいに単線的な話でもない。ストリップのステージは一日複数回のステージがあり、同じ演目を何度も楽しめる。我々にとって馴染みのあるモチーフや表現、規範的な形式を楽しむという反復性の快楽を当然含みながらも、そこに綺麗には収まりきらない都度の差異の数々が、さまざまな記憶の起ち上がりと有機的な絡み合いを伴って、毎ステージごとに現象している。『ムーブオン』を見るたび、ステージを新鮮に体験し続ける楽しさを実感しますね。



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