微毒親と娘日記

私の母は「微毒親」でした。なぜ過去形なのか?それは母がすでに亡くなっているからです。だ…

微毒親と娘日記

私の母は「微毒親」でした。なぜ過去形なのか?それは母がすでに亡くなっているからです。だからこそしんどかった思い出からなかなか抜け出せずにおり、気付けば30歳。子供のころから綴っている日記の助けを借りて、このたび、思い出と幼かった頃の自分と向き合うことにしました。

最近の記事

母とわたしは違うのに。

母は、映画を子供に見せたがりませんでした。唯一映画を観れるのは、散髪をするときだけ。親に髪を切られるときに子供が動いてしまわないように、兄弟3人のヘアカットが終わるまでの時間だけ見せてもらえます。映画のチョイスはもちろん母。子供向けの映画であろうとも、希望は叶いません。 同じ市に住んでいた父方の祖父母が、私たち孫3人を映画に連れて行ってあげるという話がありました。母はよっぽどの理由がないと、義理の実家に子供を連れて行かなかったこともあり、祖父母からすると孫ともっと会いたかっ

    • ご褒美で頑張るのは悪いこと?

      「ご褒美を設けて頑張らせるってどうなんだろうか。」父も母もよく言っていました。そして私も「お手伝いをしたり、テストでいい点をとったりしてお小遣いがもらえるクラスメイトはずるい」という観点からそう思っていました。嫉妬に近い感情で。 私が気が乗らないことを頑張る理由は怒られないため、でした。私の母は、「頑張るのが当たり前」という自分にも他人にも厳しい人でした。頑張ったらそれなりに褒めてはくれるけれど、頑張れなかったら怒られます。頑張らないと怒られるから何事もやる。そこに主体性は

      • 「親と喧嘩した」に憧れる

        友達のいう、「親と喧嘩した」に憧れていました。日記には、「けんか」と書いてありますが、私は親と喧嘩できたことは大人になるまでありませんでした。親からの言いつけに対して主張して、それを否定され納得できないまま上から押さえつけられて終了。喧嘩は勝ち負けがあるけれど、うちの場合はそもそも喧嘩ではないので常に自分の主張は通りません。妥協案すら出されません。親の意見は絶対。どんなに控えめに異を唱えても、反逆だと認定され返り討ちに合いました。 「親の言うことが聞けないのか」。私の嫌いな

        • 大人になりたくなかった小学校5年生

          子どもにとって身近な大人は親で、私にとっては父と母でした。両親をみて、大人になるなんて夢も希望もないと思っていました。いつも忙しそうで愚痴ばかりで楽しいことなんてまるでなさそうで、私たち子供のせいでお金も自由もないと思っていることがありありと伝わってきたからです。 実際に大人になると、植え付けられてしまった価値観に苦しむことはあっても、身体的にも精神的にも経済的にも子供の頃に比べたら自由だし、楽しいこともそれなりにあります。親になる=自由がない、お金がないというのは、人それ

        母とわたしは違うのに。

          家族の好きな番組調べ

          学校の社会科の授業の宿題で、「家族の好きな番組調べ」がありました。私が観るのを許されていたのは、「おじゃる丸」と「忍たま乱太郎」。たまに大河ドラマとNHKのニュース。クラスで発表できるわけがない、と思いました。クラスのみんなが観ているテレビ番組と全然違うことがわかっていたし、同時にうちの母の厳しいルールを公表することになるからです。 私がみんなが観ているテレビや流行りについて知らないことを知っているクラスの女の子たちが「どのテレビが好き~?」と聞いてきました。悪意を感じまし

          家族の好きな番組調べ

          否定されると、好きがわからなくなる

          私の母は倹約家でした。私は長女でしたが、小学校中学年までは下着と靴下以外はすべてお古。幼い頃は、いとこや母の友達の子供のお古、小学校にあがると近所の子供のお古をもらっていました。お古は男の子もののときもありました。高学年になるともらえるお古が少なくなり、たまに古着屋かスーパーに併設された売り場で買ってもらえることがありました。 うちは特別裕福ではなかったので、お古を着ること自体は仕方ないと思っていたし、たまにお気に入りになるものもありました。母は、「〇〇(私の呼び名)は衣装

          否定されると、好きがわからなくなる

          義実家を敵と認識する母

          祖父母は父母両方とも市内に住んでいました。どちらの家も車で20分以内で行ける距離でしたが、母方には週一以上、一方父方には3カ月に一度程度(必ず父も一緒に)と訪問回数には圧倒的な差がありました。 母は実家が大好きで、父の実家が苦手だったからでしょう。父の実家では、子供の目から見てもわかるくらい祖父母に気を遣いまくっていました。父には姉が2人いて、同じく市内に住んでいました。おばさんたちは美意識が高く、キラキラしていました。気後れをしていた、というのも理由の一つかもしれません。

          義実家を敵と認識する母

          母曰く、お金を使うことは悪いこと

          母は、ものすごい倹約家でした。1円単位で貯金したり家計簿をつけたり、どこに行くにも弁当と水筒を持参、外食は半年に1回程度、新品で物を買うことはほとんどなく、無料なことにこだわりをもっていました。「お金がない」「節約しなきゃ」が口癖。お金を貯めるのは、ほしいものを買うためや、行きたい場所に行くためではなく、貯金をするため。母はよく、「お金使ったから頭が痛い」と嘆いていました。貯金を楽しんでいるならばいいのですが、母は苦しみながら貯金をしていました。 小学校5年生の頃の私のお小

          母曰く、お金を使うことは悪いこと

          母の必殺、不機嫌コントロール

          家のテレビルールは、厳格でした。まず、基本的にNHKの子供番組しか見てはいけない。「おじゃる丸」と「忍たま乱太郎」を観たらその日のテレビ鑑賞は終了です。 大晦日は子ども向けアニメのスペシャル番組や、紅白歌合戦など特別番組が多く、そちらを見るならいつも観るテレビはナシ。特別番組をみても、時間でしっかり区切られてしまいます。そして、3歳離れてる弟たちは基本的に観たい番組は同じ。大抵、私よりも子供向けの番組をみたがるので、母も弟たちを味方して私が観たいテレビはいつも見ることができ

          母の必殺、不機嫌コントロール

          日記を「友達」と名付けた5年生の冬

          図書館に通うことが、家族の2週間に一度の恒例行事でした。そして本を1人最大冊数まで借りることが決められていました(ただし、母のOKが出た本に限る)。そんな中、小学校5年生だった私は、アンネの日記を図書館で借りて読み、感化されて日記を始めました。 今でもその日記が手元に残っていて、表紙裏にはこんな言葉が書かれています。 そして、「あなたのことを友達と呼びます」と書いています。 小学校中学年頃から、私は母に本音が話せなくなっていました。母に話す学校での出来事はよかったことだ

          日記を「友達」と名付けた5年生の冬

          なぜ微毒親と向き合おうと思ったのか

          私の母はこんなひとでした。私の母は、気分屋で自己肯定感が低くお金に執着があり周りの目を気にして理想はやたら高く他人にも自分にも厳しく我慢をしては時々爆発し、さみしがり屋でコントロールをしたがる人でした。でも一方で、ひとが好きで基本的に明るくて楽天的で芯が強く回りを巻き込むのが得意な人でした。 保育士だった母は、当時は少し遅めの30代を迎えてから結婚妊娠し、子育てに専念するために退職。どちらかというと真ん中より下の経済状況ながら専業主婦として、長女のわたしと弟二人の子育てと家

          なぜ微毒親と向き合おうと思ったのか