誰が読む?「純粋小説論」
横光利一「純粋小説論」。
読んだことのある方はおそらくかなり少ないと思う。
ただ、書いてあることを見ると(拍子抜けするほど)現在のいわゆる「純文学」を巡って交わされる議論と変わらない。
と、いうことで軽く説明したい。
まず彼は
と出る。なかなか大した風呂敷を広げた。例えるなら伊坂幸太郎×三島由紀夫である。この次に彼は
横光のおっちゃんも大きく出たもんである。
それからここで横光のおっちゃんは言う。
だと。
まあ要するに、「おっす俺は元気いっぱい人生に絶望して死にかけの高校三年生!太宰リスペクトして川にダイブ!ん、これは何?……五億円だ!違う、桃だ!違う、五億円の入った桃だ!やったあ〜、生きる希望が湧いてきたぞ〜めでたしめでたし〜」みたいな話を誰が信じるねん(元々は河合隼雄の言葉を借りた)、ということだ(多分)。
それからこんなことも。
また大きく出る。「純粋小説」というのは、どうやら小説世界―というか「純文学」―におけるメシアのごとき何者かであるらしい。
横光おじさん話がくどいので少し要約して話す。
おっちゃんいわく、海外の小説はオッケーなんだって。ドストエフスキーとか、ディケンズ。
なんでかって言うと、「偶然」を上手に使ってるから。
ふむふむ。
で、「純粋小説」と「偶然」に何の関係が?っていうのを説明しているのがこの下(でも読まなくっていいよ)。
ここ意味わかんないから。
ので、続きを読んでみる。
「自己身辺の日常経験のみを書きつらねる」―これは「私小説」について書いていると見ていいはず。
つまり、自分が女中を妊娠させただの、一家離散しただの、ごちゃごちゃ身の回りのことを書いて、それで文学とするな。横光のおっちゃんはそんなことを言っている(たぶん)。
そして、そこに「偶然」がないことも。生きていることの持つキラキラした「偶然」を捨てて、退屈な日常という「必然」に逃げ込むな、そんなものを本当の文学とするな―横光のおっちゃんは闘っている。
そんな「私小説」どもは「通俗小説」にも劣る。横光のおっちゃんは怒っている。
余談
「通俗小説」といえば、この前筆者が名前につられて借りた小説、「漱石「虞美人草」殺人事件」がひどかった。
〈あらすじ〉
犯人は元々レズビアンの女性なのだが、性的指向が変わり、男性を愛するようになる。
そこで元々付き合っていた女性の恋人と別れようとするうちに痴情のもつれで彼女を殺してしまう……
書いていても頭が痛くなってくるが、本当にこんな小説である。なお漱石の虞美人草は初めの方しか出てこない。
しかし、横光利一に言わせるなら
ということになる。まあ、こんな小説に想像もなにもありはしないと言いたくなるが、それほど当時の日本の「私小説」旋風がひどかったのだ(おそらく)。
なおLGBTに対する配慮がここまで欠けているのかと、筆者は呆然となった。小説も時代の産物であり、差別から完全に逃れるのは難しいとは言え……読んでいて極めて不愉快だったことははっきり書いておく。
話を戻すと、「生活に懐疑と倦怠と疲労と無力さとをばかり与える日常性」―これにも横光利一はドロップキックをかましている。
生きていることは、必ず(それがどれほどささやかなものであれ)偶然性を有する。
それに目を向けず、生きるのは辛いの、苦しいのと書き連ねることに横光利一は批判的なのだ。
彼がもし春樹/ばなな作品を読んだら喜ぶかもしれない。彼らは(特に初期)「なんでもない日常」を鮮やかに書いていたから。
「生活の感動」―「生きることそのものの感動」といってもいいはず。
たぶん、ここで横光のおっちゃんの頭にはドストエフスキーやディケンズがあるはず。偶然性を使ったドラマチックな筋立てと、そこで見つかる人間が生きていることへの強い感動。十九世紀小説の面目である。
さて、ここから先は同時代的な論に入って話が細分化している(ように見える)ので、少しこちらの話をしておきたい。
なぜ今このコテコテの文学論を引っ張り出して来たかと言うと、現在、純文学において「娯楽小説との融合」がしきりと騒がれている(たぶん誰も気づいていないが)ためだ。
平野啓一郎氏の「ドーン」や「マチネの終わりに」、中村文則氏の「R帝国」や「カード師」、羽田圭介氏の「コンテクスト・オブ・ザ・デッド」などがひとまず挙げられる。
一つの傾向としては、横光のおっちゃんの予言していた「通俗小説に圧倒せられた純文学の衰亡」がいよいよ現実味を帯びてきたからというのもあるのではないか。
今、純文学作家は兼業が多い。昔のバーに入り浸り、緩いエッセイで食いつなげていた文士の時代は遥か遠くである。
横光のおっちゃんの言う「通俗小説」から時代は移り、現代はYouTubeやTwitterなどの「短期的に見れて刺激が強い」表現に「純文学」は追われている。あげく百田尚樹などが売れる始末だ。
しかし、筆者には上にあげた彼らの作品がどれも成功しているとは思えない。
ドストエフスキーやディケンズは、自分たちが「純文学作家」だとは思わなかっただろう。彼らは当時の読者や雑誌に振り回され、小説の構想をときに変える必要に迫られた。
だからこそ、彼らには「何かを表現してやろう」という臭みがない。
彼らの小説は魚の溢れた川で素手で魚を捕まえるように、人間の生きた動きをそのままの形で見せてくれる。
現在の日本の純文学作家たちのやる「エンタメ×純文学」は、そこからして間違っている。
エンタメの下りが純文学と肉離れを起こしている。
横光のおっちゃんは言う。
いい言葉だ、おっちゃん。そうだ、ドストエフスキーなんてあんなにややこしい哲学と、ペテルブルクを生きる人々がちゃんと両立している。だからすごいのだ。
現在の日本の作家たちは、こういう言いかたは意地悪いが、「自分たちは純文学作家だ」と思っている。その小さい思い込みから外に出ずにいる。
だから、本当の娯楽小説が持つ強い魅力や楽しさに欠けた、けれど彼ら自身の主義主張も薄まった、どちらにせよ中途半端な作品ばかり書くことになる。
ということで結果的にこれは令和「純粋小説論」である。なってしまった。
なお、この時代にあっても谷崎潤一郎は谷崎潤一郎であった。谷崎の小説はいつでも楽しそうでいい。
しかし、彼が「純粋小説論」は逆立ちしても書かなかっただろう。白樺派の小説など、読んでいたのかどうか。
その気楽な、美味しいご飯に満ち足りる余裕の精神もまた、筆者と横光利一に欠けているものかもしれない。
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