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私はひたすらに現実逃避がしたいだけなのなのかもしれない




[注意書き]

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以下、私が病みに病んだときに書いた文章が続きます。支離滅裂かつ攻撃的な内容です。それでもよければお読みください。
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本文

私は現実が嫌いだ。世界が美しいなどと全くもって中身のない綺麗事を言うことしかできない人間が嫌いだ。限定的な状況においてしか適用できない規則・モラル・マナーを、さも世界における普遍的な決まり事のように扱い、それを疑いもしない連中が嫌いだ。社会に溢れる矛盾や、私の目にはおかしく映る現象を、そういうもんだろうと、それを遂行することが出来ない、それを疑う人がおかしいのだとする頭の悪い連中が嫌いだ。

なぜ私は生まれてきてしまったのか。そのような運命だったのか。一体誰を何を憎めばいいのか。恨めばいいのか。生まれてきてよかったなんて思うことはできない。なぜ生きているだけで偉いなんて言えるのか。そんなことはないだろう。死は悪ではないし、死は生の対極にある出来事でもないのだ。たしかに生の否定は死だ。生きていない状態は死んでいる。なんで死ぬことはいけないことなのか。この質問に本当の意味で答えられる人間がどこにいるのだ。だって誰も答えを持っていない。そんなものあるのなら、私に教えてほしい。わざわざ生にしがみついてまでも得るべきものがあるとは思えないのだ。どうしてもそんなことは思えないのだ。どうせ死ぬことはできないのだから、死なない内にやれることはやっておこうと、そんな考え方なら理解することはできる。だが盲目的に死は悪だ、生きることこそ素晴らしい、生きている人間が偉い。そんなことを本気で信じていて、実際にいう人間がいる。決して珍しい主張ではない。そんなこと思うなら早く死ねばいいとそう言うだろう。

私は比較的物事を考える方であると自負している。だが私は私にとって本当に重要である問題から、逃げ続けているだけではないのか。その問題とは、私がどうしようもなく生きていて、私が心の底から嫌悪している社会という場において、それが為されているということである。私はとても弱いので、まともに現実を受けとめることができない。しっかりと生に向き合うことができない。生きていく上で必要なことに意味を見出すことが難しい。できれば生きていたくない。何がなんでも生きたいなど思わない。生きて成し遂げたいこともない。私を含む人間という生き物は社会的動物といわれ、何かしらの集団の中で、自らの役割を全うすることで生きていくことができる。つまり生きていくだけで、どこかで誰かと一緒に関わり合いを持たなければならないというわけなのだ。また私たちは精神的な安心感と結束を求めるので、お互いにとって大事な人が一人はいると思われる。私の言動が他者に影響を及ぼすのだ。死ぬことを考えるときに一番の障害が、自らと社会との関わり合いだろう。それは自分が働いている職場での欠員に繋がりえるし、自分と親しくしている人たちに精神的にダメージを与えかねない。私にも一応良心があるので、そうしたダメージをできれば与えたくない。私は私のために死ぬのであって、誰かの何かによる悪影響によって、私を死に至らしめるほどの動機を得たわけではない。私が死ぬことによって悲しむかもしれない一切の人間関係を清算しなければ、この考え方のまま死んでいくことはかなり難しいだろう。ここまで底の底まで病み尽くしているような文章を書いていながらだが、一つ疑問が浮かんだ。なぜ自殺はいけないことなのか。病死や事故死なら、ある程度は死の責任なり怒りをぶつける相手がはっきりしている。凶悪犯による猟奇的殺人なら、遺族は気が狂いそうになるほど犯人を憎むだろう。それは事故死でも似たような状況である。では自殺では誰が悪いのだ。一体誰に怒りや憤り、その行き詰まった気持ちをぶつければいいのだ。周りの人間か。それは責任転嫁に過ぎないだろう。

誰とも関わりあわずに生まれて死んでいきたかった。

こんなに考えることがしんどくなるくらいなら、私が嫌悪する馬鹿な連中でいたかった。こんな苦しみなど味わうことなく、人生に絶望など微塵も感じることのない、そんな素晴らしい生を全うしたかった。

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