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この一カ月間、毎週末山に登ってみた

AIの進化の凄さに翻弄され山に逃げて?はや一カ月。週末になると山に登るという習慣に体も慣れてきた。気のせいかもしれないが何か前向きになってきた様にも思う。
仕事では新人が入り、付きっきりでなかなか忙しくなった。もう少し余裕を持ちたいのでAIの導入を検討。チャットボット(ついにOpenAI、GPTのボットが商品化されてきた)から入って少しでも業務を軽減できればと動いているが、田舎の製造の会社では社員にはAIの話が別世界であるかの様に認知されていない。まぁ、実際目の当たりにしないと意識しにくいのだろう。

倒木に巻かれたピンクの道標
この横たわった倒木の様な社会に今はまだAIの認知は針の様な細さに感じる。

さて、毎週山に登る生活をはじめて今で6週間が経った。しかし、山に登ってしばらくは、どうすれば次の登山はうまく行けるだろうかという、本来の目的(本能とは何かを探りたかった)とは違って改善というか次もっと上手くやろうとか、荷物を厳選して軽くしようとか、そっちの事ばかり取り憑かれた様に考えてた。
季節の移ろいと共に持ち物も変わり、これは年中取り憑かれるかもしれないが。

7年ぐらい使っている登山靴

そんな中で一つ頭に浮かんだのが、自由についてだった。今後技術の進化等で一定の人は時間に余裕が出来たり、何でも出来る様になったりするかもしれない。音楽を作ったり、絵を描いたり、動画を作ったり、小説を書いたりだ。そうなった時、皆自由を正しく謳歌できるのだろうかとふと疑問に思った。
私を例にすると、何でも出来ると何をするのが良いのか、選択に時間がかかり結局何も出来ないという事が起こる。

選択肢は多い方が良いか、少ない方が良いか

山に登っているときは、ある意味自由なのだが、山は基本的に不自由である。制約がある。道はほぼ整備された登山道を選ぶ必要があり、飲み水は持てる量に限りがある。食料もだ。荷物は重いと動きが遅くなり、軽いと動きやすいが有事には心許ない。日が出ているうちに行動を終える必要もある。知らない山で暗闇は危険と隣り合わせだ。そう、山は危険が隣り合わせなのだ。
危険から己を守る事を大前提に自然を、自身を謳歌する。私という身体一つで出来る事をする。そうすると身体という制約が、私の思考を整理させてくれるという側面もあるのだという事を発見した。これはデジタル化との逆向とも思えるのだが、これが人なのではとも思うのだ。デジタル化は自己拡張の様にも思うが、脳は今現在からそれほど拡張できないのではないだろうか。わからないが、自己を保っていれる範囲がある様にも思う。身体を与えられて生まれた、その身体で活動している間はこの身体による自己を認識していたいという想いが私の中にはある。

八経ヶ岳、弥山テント泊

テント泊をすると辺りは静寂。重い荷物を背負ってきたのでぐっすり眠れもするし、晴れていれば星を好きなだけ眺めていれる。山ご飯、と言ってもお湯を入れるだけのものや、パンを焼いたり程度だが1人で食べていても身体がエネルギーを欲しているので、貪り食う。美味しい!と身体が喜ぶのだ。

ホットサンド、挟んで焼くだけ


この時思うのだ。自分でできる範囲、制約がある中で神経を研ぎ澄ます、あるいは自分の身体と相談している。そうしている時の空間、時間の使い方がとても贅沢に使っている気がして充実感がある。それだけで良いのだ。

肉眼では実際は真っ暗で星だけが光っていた。デジタル技術のお陰で写真撮りながら現地でこの映像を観れるのは一部ではあるがより豊かな自然を味わっていると言えるかもしれない。

選択肢を絞る作業をAIに任せれば良いじゃないかと言われればそれも一理あると思うが、私はまた自己を見失いかけて袋小路に入るかもしれない(笑)まだ、AIとの付き合い方は私には決めれないが、行き当たりばったりでも付き合っているうちにこういうものなのかなと何となくわかる日が来るんだろうと思う。

あ、そうか。自己を拡張することには不安は感じるが、仮にもう一つの自己をAIでつくり、脳を二つにした場合は何とかなる気もする。つまりは「選択し、決定する」という行為を分担できれば、私にとっては脳の負担が減り健康的に脳の活動が行える気もしてきた。

私は選択と決断に非常にエネルギーを吸われているのかもしれない。自由で有るとはこれらが無限に有るということとも思う。
有る程度の制約の中でしか一定のパフォーマンスを出しきれない人もいるのではないだろうか。だからと言って不自由になる様に拘束する世界も嫌いだ。
自由と不自由、どちらも組み合わせると良い感じになりそうだが。答えは探し続ける事になるだろうね。それが私の人生なんだろう。

古木の中の若い木に注ぐ陽光

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