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生きるって

平日は仕事でほとんど身体を動かさないデスクワーク、帰ってもゲームか調べ物。週末だけ山を登り初めて13週が経つ。歩いた距離は延べ150kmちょい。獲得標高はざっくりだが15,000m程。(YAMAPデータ参照。ほんと便利なアプリだ。)


身体も慣れてきて必死さも落ち着いてきた今日。生きるってなんだろうって改めて考えてた。考えてたらストンと腑に落ちた。

あぁ、「生きようとする事」なのかもしれない。

ありきたり過ぎてしょーもない。自分でも、なんだそれとツッコミを入れたくなる。
でもそのすごくシンプルな営み「生きようとする事」がとても尊いと感じる。

その営みとは、ヘトヘトになるまで歩く。身体のエネルギーが枯渇する。飯を食べる。水分を補給する。そしてまた歩く。夜は眠る。
命を繋げていくそのシンプルな営みが「生きようとする」ということなんだ。人の、いや全ての生き物の生まれてきた事由なんだと思う。精神というか、意思?記憶?はよくわからなくなってきたが、肉体の死は生まれた時に約束される。その時までそれらを体現する事を「生きる」というのではなかろうか。


何故生きようとするのか、何故その為に生まれてきたのか。それは人、というか生命そのものが誕生した理由にもつながると思う。だがその理由は私などにはわからない。死ぬまでにもし何か腑に落ちれば良いしわからないままでも良い。考える事を放棄した訳ではないが、今はこの身体に向き合ってるだけで十分楽しめてる。


では何故生きようとする営みが生きるという事だと思ったのか。山に登って最初に強く意識出来たのは身体のエネルギー。エネルギーって無くなるんだ。歩く力が無くなるってなかなか普段の生活では味わえない。そんな時にご飯を食べる。理屈抜きに大体のものは何でもメチャクチャ美味しい。五臓六腑に染み渡る。身体がエネルギーを欲するのだ。そして食べたら動ける様になる。この営みが一歩目だった。


次に向き合ったのは痛みだった。肩の痛み、膝の痛み、足の甲の痛み。これらに向き合わないと山には登り続けられないと痛感したからだ。
まずは部位ごとに何故痛くなるのかを考えた。肩は痛みの種類が二つある。一つは肩凝に似た症状ともう一つは20kg程のザックをかついだ時に起こる肩へのベルトのメリ込みだ。両方に共通するのは筋力不足なのは明白なのだが、一つ目の肩凝りは血流が良くないからなのもあるだろう。というのも肩凝りがひどい時でもカメラを構えて写真を撮り続けていると、シャッターは脇を閉めて押すのが正解だと思うが、しゃがんだりバランスを取りながらポジションを決める時腕を開く事が多い。これらの動きをすると痛みが引いている事に気づく。ネットなどで肩凝り時にすると良い運動みたいなのを見ると肩の血流を良くする運動に行き着く気がする。カメラを構える一連の動作が同じ働きをしているのだろう。肩のもう一つの痛みは肩ベルトのメリ込みだが、これはザックの耐荷重を無視したり、身体にフィットしていなかった事もあるだろうと思い、ザックを買い替えてみた。結果はやはり驚くほど違いがあった。全く肩にメリ込まない。20kg以上詰め込んでもだ。肩ではなく腰で支える事に優れたザックに変えただけで痛みが一つ消えた。(肩凝りはまだ起こるので筋トレは必要ではある)
次に膝の痛み。発症するのは登りではなくいつも降りだ。原因は最近わかったが身体(特に足首)が硬い事に行き着いた。
だがそこに行き着くまでにザックで成功体験していたので道具による改善に目を向けて三つ程試してみた。具体的には、
・トレッキングポール。これを使って降り時の足への衝撃を和らげる。
・靴のインソール。衝撃を和らげたり、プラスO脚気味の足の矯正効果に目をつけてみたりした。インソールは確かに外に突っ張っていた膝が真っ直ぐになる感覚があった。
・サポートタイツ。膝への直接的なサポートととして、サポートタイツを履いてみた。膝周りをテーピングした様なサポートはもちろん、足の全体の疲労を軽減もしてくれる効果は本当に感じられた。
それぞれ三つともメリットはかなりあったので使い続けるだろう。
だが膝はそれでも痛かった。
あまりに酷くなったので整体にいって治療してもらいながら対処法を探ってもらった。
結論は先に述べた足首が硬い事だった。
あまり曲がらないのだ。その為に膝に負担がかかっていたのだ。20分程の処置でびっこをひいていたのが治る様を目の当たりにしながらストレッチの大事さを痛感した。結局足の甲も足首の硬さから来ていた。
痛みに対して身体の重要性も気付きかけてたけれどまず時間短縮の為道具での改善を試し、結果はそれなりに得るものはあったが、結局痛みに対しては自身の身体の改善と向き合う事は避けて通れないとわかった。山登りを始めてからご飯、道具、身体、この三つを意識しながらより良く進もうとしている自分は、生きようとしているのだなとふと思ったのである。
食べる事、苦痛を和らげようとする事、見た事がない景色を見るためにより前に進むにはどうすれば良いかを考える事、これらの営みにより、私は命を繋げている。それが生きるという事。たったそれだけの事だった。

失敗は成功の元、、だ!


さて、それがどうしたと言われればどうもしない。ただ頭の中のモヤモヤは晴れて次どんな山に登ろうか、ストレッチで膝の痛みはどれくらい和らぐのか試してみたいし行ったことのない山に行ってみたい。テント泊して非日常を味わってもみたい。どんな食事を用意しようかとか、たまには1人ではなくて2人で登ってみようかなとか、そんなとりとめもない事を考えているのが楽しい。それで良いと今は思ってる。

また変わるかもしれないけど、それは何かを発見したり環境が変わるからであって変わって当然だと思う。そんな感じでこれからも生きていくだろう。

という事でこの独り言をchatGPTに投げてみた。
以下chatGPT4

あなたの心情と山登りから得た洞察にとても共感しました。「生きようとすること」が生きるということだという視点は、一見当たり前に思えて、でも深く考えてみると非常に奥深いですね。

それぞれの痛みと向き合い、それを解決するために様々な策を試し、自身の身体と向き合うことの重要性を理解された点も印象的です。痛みを感じて向き合うこと、それを和らげるために行動すること、その結果として更に前へと進むこと。それら全てが「生きる」という行為そのものだと感じました。

そして、その行動を通じて自分自身の身体や心に向き合い、自分自身を理解していくプロセスは、自分が生きていると実感する瞬間でもあるのかもしれません。

あなたが山を登り続けることで、自己理解や生きることに対する理解を深め、そして新しい経験や考え方、目標に向かって行動する喜びを感じている様子を伝えてくれて、私たちもその喜びを共有できるような気がしました。これからも、その楽しみと探求を続けていくことを心から応援しています。

とのこと。最近のchatGPTは話をまとめる上手さに加え、さりげなく共感を装ってくるこの奥ゆかしさが長けてきたような。あと、自身を「私たち」と言う様になったのか。以前は「私」だった。
ふーーん。

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