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『関心領域』/怒りも憎しみも形骸化してしまうのか(映画感想文)

『関心領域』(23)はポーランドに作られたアウシュビッツ強制収容所の隣に建てられた邸宅が舞台。
美しく手入れされた庭を持つ豪勢で美しいその家に住むのは、収容所所長のルドルフ・ヘスとその一家(親衛隊大将だったリヒャルト・ヘスとは別人。こちらの所長はフェルディナント・ヘスである)。

収容所の稼働が始まったのは1940年。初代所長として着任したヘスだが、このときまでナチ党のなかで要職に就いたことはない。35年頃からいくつかの強制収容所で看守、指導者を務め、そこでの管理能力を買われての抜擢だった。
アウシュビッツに最初に送り込まれたのはドイツ人刑事犯30名で、続いてポーランドの政治犯700余名。ヘス自身はどうやらこの時点で、アウシュビッツが後に知られるようになるほどの大罪を犯す場になると予期していない。
独ソ戦前の41年、アウシュビッツをひとりの人物が訪れる。ハインリヒ・ヒムラーだった。ヘスはこのときヒムラーに「収容数を3万にせよ。さらに隣接する土地にさらに建設し10万人を超える収容が可能な手筈を調えろ」といわれる。
さらに、その半年後に再びヒムラーからヘスはユダヤ人に対する計画を知らされた。このとき「この命令には何か異常なもの、途方のないものがあると感じた。だが命令であり、命令であるかぎりその虐殺の措置は正しく、自分が熟慮することはなかった。命令を受ければ実行するしかなかった」と思ったと後に回顧している。
恐ろしい話だが、この当時他の絶滅収容所では一酸化炭素が用いられていた。だがヘスが公務旅行中に所長代理を務めた人物がソ連軍捕虜を使ってチクロンBによるガス殺を試し、より効率よく目的を遂行できると知った。以降、収容所ではこちらが採用されている。

なんとも吐き気をもよおす、許しがたい話だ。恐るべきことに創作の出来事ではなく歴史上の事実である。
しかし映画『関心領域』を観て感じる恐怖や憎悪は、その虐殺に対するダイレクトな恐ろしさや行為に対する憎しみとはちょっと違う。
鑑賞した人は多分ほぼ誰もが同じ考えだと思うのだが、劇中で最も恐ろしいのは所長であるヘスではなく(この人物もいかに効率よく人をモノのように処理するかしか腐心していない常軌を逸した狂人であるが)その妻ヘートヴィヒである。

劇中、収容所で行われていることはいっさい描写されない。
だが常に彼女たちの住まう立派な邸宅の塀一枚隔てた隣の敷地からは、巨大な炎の燃え盛るような音、得体の知れない地響きのような唸り、そして人の悲鳴なのか叫びなのか判然としない何かが聴こえている。知っているものにはそれが何をしている音なのかが判る。知らなければ、無知ゆえその恐ろしさには気付かない(無知ゆえ無頓着でいられる、というのが映画のテーマに違いない。それを許していいのか。われわれ自身が無知ゆえ関心を示さなくても許されるのか、…ということだが、歴史上で行われたことを知らないからといって偉人とされる人物の蛮行を助長してもいいのか、というのはごく最近も日本の音楽シーンにおいて起こったことだ)。
だがヘスは当然知っている(当たり前だ)。そして妻であるヘートヴィヒも知っている
だが、ヘスは知っているがそれは絶対服従するしかない上官からの命令に基づき行っている(繰り返すが、だからといって許せることではない。心の在りどころを考えるうえでのことだけだ)のだが、彼女は違う。
収容所で行っていることでヘスが私腹を肥やしているか否かは定かではなく(映画の作劇上。事実としては私腹を肥やしていたとも思うが)、彼女は収容された人々を殺戮することにおいて利益を受け取り、そしてそのことにひとかけらの罪悪感もない。どころか、夫のヘスが異動になりその地を離れると決まるや逆ギレし、ヒステリックに「ここまでこの家や庭を手入れし見事にしたのは自分なのだから。わたしにはこの家にいる権利がある。手放す気はない」といって夫には単身で異動するように命じるのだ。
いや、あんたがそうやって守ろうとしている家や調度品といった財はすべて他の人のもので、それをあんたはその人たちの命を奪って手に入れたんだろうが!!! ときっと誰もが思うに違いない。
だがさらに異常なのは(恐ろしいのは)彼女がそれを本当に心の底から当然のことと、少しの疑問も持たずに考え主張している点なのだ。
映画のかなりはやい時点で、手に入れた毛皮のコートをあたかも百貨店の試着室で着てみて「似合うかしら」とでもいうように、身に付けた自分を鏡のなかに検分する場面があるが、それを着ていた人物はすでに死者であり、死なせたのは彼女の夫たちであり、そして彼女自身も含めたナチ党を支持するドイツ人たちである。そうやってコートをまとい無表情に(何の感情もなく!)品定めしながら、彼女はポケットから出てきた口紅も試すのだ。それも死者のものだ! お前のものではない

人はこうも(死に。殺すことに)無関心になれるのだろうか。
家族や親しい友人の死には心を傷め、悲嘆にくれ、涙を流すのに、他人の死についてはそうではない。THE YELLOW MONKEYの「JAM」じゃないけど航空機事故が起こってもそれが遠い異国のことであれば、たとえどれだけ死者が出ても同国人のことのように悲しみを感じない。何なのか。
同じ人間であり同じように生きて、同じように家庭を持ち、同じように庭の手入れを楽しみにしてあれこれ工夫を凝らしていた筈なのに。片やその人たちを殺して奪い、その奪ったものをいざ失うかもしれないと知ってヒステリックに守ろうとする。奪われる残念さや悲しみを訴える人が、それを奪われた同じ人間の気持ちに思いが至らない。考える価値もない、考えても仕方のないことだとでも思い込んでいるかのように。
またしても、ここで人の心とはいかに不完全なのか、と思わざるを得なくなる。
人は自分を中心として考えるもので、特に利益や損失に関わることではどうしても自分のことを何よりも考えてしまうものなのだ、というのは『きみたちはどう生きるか』のなかでコペルくんが叔父さんからいわれることだが、いい大人が他人様の生命に関することでもそうなってしまうのか、と考えると本当に慄然とする。
それほど豊かな生活というのは、財を持ち多くのものを手に入れる生活というのは魅力的なのだろうか。人をこうも狂わせるほどに。

だが、戦争の惨事に対し、ではお前はどれほど心を痛ませ、行動できているのか? と正面から問われれば、実際自分でも心許ないと思う。
なぜなら、同様に戦争のお題目を掲げて殺戮や略奪が行われていても、ではそれを止めようとはたして自分が行動しているか。人の生命や生活を守ろうと何かできているのかというと、結局のところは何もしていないのだから。ウクライナやイスラエルは遠いから? 直接目の当たりにすることがないから無関心でいられる? そうなら、たとえ人が焼かれる音を日々耳にしながらも、すべては壁のむこうのことと割り切り豊かな生活に憑りつかれたヘスの妻とわれわれはそう変わりないのかもしれない。

映画の終わり近くで、突然現在のアウシュビッツ=ゲルヒナウ博物館に場面が変わる。
時間を飛び越えたかのようなそのシーンは、見様によってはヘスの幻視した未来にも思える。
この場面について、僕自身は「歴史の目線」なのだと思っていた。ヘスたちがいまやっていることは、本人たちに自覚がなくとも、歴史においては大罪であり、やがては裁かれるのだと。それをヘスに垣間見せたのだと。
だが、知人たちに聞くと違って「結局、現代において行われた残虐行為は形骸化し、人々はただの過去の出来事としてしか関心を持っていない」ということをあの場面は指摘しているのだ、といった悲観的な意見が多い。博物館で清掃にあたる人々がいかにもルーティン然として悲しみを示すこともなく、死者が遺した膨大な量の靴や鞄を見ても感情を動かされることなく、ただ清掃を日常の作業として行っているから、というのだが。僕の見方は、あまりにも歴史の正義や大いなる意思としての善を信用し過ぎているのだろうか。

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