臨死体験がテーマの映画 クリント・イーストウッド

DVD「ヒアアフター(ここから後の世界)」クリントイーストウッド監督、見た。監督としてのイーストウッドは好きなのでまあまあ見ているが、これは見ていなかった。
彼が、臨死体験にここまで関心を持ち、それをメインテーマにすえた映画を作っていたのは初めて知った。

日本では2月途中からの短い公開のあと、東北大震災が起こり、リアルな津波のシーンがあるため、311の数日後に上映が中止になった。だから映画館で見た人は少ないはずの映画である。

(以下ネタバレ注意。ただしラストシーンまで全部は書いてません)

主人公のひとり、パリのジャーナリストのマリーは旅行中にスマトラ地震の津波に飲み込まれ、臨死体験するが蘇生する。その後、後遺症などでジャーナリストとしてミスが多くなり、テレビを降板し、本を書くことになる。彼女はミッテラン大統領の真相についての本を書くとプレゼンテーションして会社を説得し、前金をもらって、臨死体験の研究を深める。特にホスピスに勤務する女性医師からは膨大な臨死体験の資料を預かる。そのとき「たくさんの誤解や攻撃のある困難な道よ。あなたに託すわ」と医師は言う。映画では医師に「彼らが臨死体験したのは、脳の活動が完全に止まっていたときなの」という台詞を言わせている。アメリカの脳科学者エベンアレキザンダーが自身の臨死体験中のMRIを見て述べたのと同じ、重要な台詞である。

主人公のひとり、サンフランシスコのジョージは幼い頃の臨死体験によって、サイキックな能力が目覚めた。一時はそれを仕事にしていたが、見えすぎることに苦悩し、工場勤務を選ぶ。だが、そこでリストラにあい、兄はサイキックな相談事業に戻る手はずを整えてくれる。だが、どうしても嫌だったので、イギリスに旅立つ。

主人公のひとり、ロンドンの少年マーカスは、双子の兄を事故で亡くし、もう一度会いたくて、数多くの偽ものの霊能力者を巡り、それでもあきらめず、ついにロンドンに来たジョージに巡り会う。

マリーは、臨死体験の本を会社に提出するが「ミッテランの本ではなかったのか」「こんな本は英語で書いてアメリカかイギリスから出してもらえ」と上司に一蹴される。が、気を取り直して打診してくれた上司の伝手でイギリスの出版社から本を出せることになり、ブックフェアで朗読するため、ロンドンに行く。

これで3人の主人公がロンドンに集った。そしてマリーの朗読会をしている書店でそれぞれ接近遭遇する。そして・・・。

臨死体験者マリーとジョージが初めて遭遇し、マリーはジョージが誰かも知らず本のサイン会で握手した瞬間、走ったエネルギー。このシーンで、なぜか、僕はぽろぽろ泣いてしまった。
なぜだか、よくわからない。僕にはこれがクライマックスだった。
マーカス少年の演者は、時々、双子のもうひとりの役者(子役)に入れ替わる。これは魂がひとつであることを映画の技法でさりげなく象徴していた。
マリーの臨死体験による、光だけの世界と、ジョージのサイキックな能力による霊との対話は、矛楯する。
前にも述べたように、真の臨死体験とは、空あるいは光だけの色もなく形もない世界であり、霊が存続するというのは幻想だからだ。
これに対してイーストウッドがどう考えていたのかは知らないが、僕の解釈はこうだ。マリーが語っているのは、僕が語っているのと同じ究極の臨死体験そのもの。ジョージが読んでいるのは、死んでしまった霊の気持ちではなく、相談にきた生者の深層意識だ。
ただ、ラスト近くのサイキックリーディングで「死んだ兄と自分の、ふたりの魂はひとつだ」というマーカスの深層意識を読んだジョージが、それを兄の声として伝えたときだけは、生者の深層意識が、彼方の彼方まで届いていたかもしれない。このサイキックリーディングをして初めて、ジョージは、サイキックリーディングすることの真の意味に目覚めたかもしれない。

クリント・イーストウッドは臨死体験に深い理解を示し、本気でこの映画をつくったことだけは確かである。

もしも心動かされた作品があればサポートをよろしくお願いいたします。いただいたサポートは紙の本の出版、その他の表現活動に有効に活かしていきたいと考えています。