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この世に投げ返されて(28)  ~臨死体験と生きていることの奇跡~

(28)

(写真は私が生まれて初めて織ったさをり織りです)

 身体障碍者手帳3級(運輸一種)が市から交付され、私は電動車椅子の支給を市に求めました。
 ちょうどその頃、坂の上の住宅街にあった私の実家から、弟の一家が転出しました。私は退院後、友人に短期の約束で借りていた平屋建てからその実家に引っ越すことにしました。
妻と正式に離婚した私は独り身でした。ところが、離婚まで家族と暮らしてきた家の私の書斎にはまだ膨大な書物が残されたままでした。部屋数の多い実家に引っ越せばそんな私のすべての荷物(主に書物ですが)を実際の住居に運びこむこともできます。
 電動車椅子は「贅沢品」として、「必要性」を市の審査会で認められる必要がありました。私は、最寄りの駅から、その住宅に到るには急な坂を毎回登らなければならず、中途障碍のひ弱な腕の筋力では手動車椅子で登りきるのは不可能だと訴えました。
 審査会で主張が認められ、実際の車椅子支給まで随分時間がかかりましたが、何ヵ月もしてやっと電動車椅子の支給を認められました。
 こうして私はガイドヘルパーなしで、電動車椅子でひとりで出かけることが比較的容易になりました。
もちろん生きているこの世の街はバリアに満ちていて歩道のわずかな段を越えるにもいちいち困難がありました。そのたびに私は通りがかりの人に声をかけ、手伝ってもらうことを覚えました。
 もともと周囲の人たちと挨拶したり、コミュニケーションしたりすることのあまりない自分でしたが、援助してもらうという必要性が生じたために、人との交流の回路が太くなったという面もありました。
 ガイドヘルパーの利用について、ここまであまり説明していませんでしたが、そこには色々と細かな決まり事が実はありました。たとえば、通院、通学、通勤などに用いてはならないという点などです。
 これはガイドヘルパーの趣旨が、家にこもりがちな障碍者が外出の機会を増やし、レジャー等を楽しむというところに主眼を置いているためだと説明されました。しかし、この決まり事のために私はそれまで就労支援の施設に通うことを断念していました。手動車椅子でひとりで行くのはとても大変だったし、ガイドヘルパーはその通勤のために使えないという理不尽な決まり事があったからです。
 しかし、電動車椅子なら駅までたどり着き、駅員にスロープを渡してもらって車両に乗り、電車に乗って就労支援の施設まで出かけることは可能でした。
それで私はやっと以前から強い関心を持っていた「さをり織り」の教室に通い始めたのです。就労支援Bの枠組で、糸代などの実費のほかは無料で「さをり織り」を習うことができました。
 私の通った「さをり広場」の広々とした室内には、何台もの足踏み織り機が並んでいて、様々な障碍をかかえた人たちが作業に勤しんでいました。
部屋の壁は三方が何段もの棚になっていて、そこに様々な材質、色の糸が並んでいます。私たちはそのめくるめく「色の見本市」の中から好きな糸を何種類も選んで籠に入れ、自分の織機に戻ってきます。
細かい手間のかかる作業は「経糸の準備」でした。一本一本を小さな穴に通し、さらに隙間から落とします。この準備が整えば、後は好きな横糸を通しては、足を踏みかえ、ぎゅっと手前に押さえて織り込む作業を繰り返していくだけです。
私はその原理を学んだり、あまり何も考えずに最初の作品を織って、思いもかけない色合いの織物が仕上がるまで、この「さをり織り」をとても楽しんだのを覚えています。
しかし間もなく私は頭を打ちました。
実のところ、手先が不器用なのは、むしろ小さなマイナスにすぎませんでした。いや、私よりずっと身体障碍の具合が大変な人も、色々な器具を使ったり、指導者に援助されたりして、良い作品をたくさん織っていました。
私がぶつかった壁は、私が「無心に織ること」ができないということでした。
教室には何人かの「天才的な」織り手がいました。
私の見る限り、その殆どは知的障碍や精神障碍をもった人たちでした。彼らはすべてを直感に従って進めているように私には見えました。実際彼らが織っている姿をしばらく見つめていると、まるで踊っているように見えました。
それは作品のコンセプトを考察し、それに基づいて糸の色や材質を選び、仕上がりを予想して経糸と横糸を計画的に織りなすといったようなやり方とは、何か本質的に違うところがあるように見えました。
彼らは脳の定型的な思考パターンに囚われていないようでした。良い作品を織ろうとして頭の中に設計図を書くという通常の脳の用い方は最初から放棄されているのです。
歌を創ることがある私は、人に「曲ってどうやって生まれるの?」と聞かれることがあります。しかし、旋律は天から降ってくるとしか応えようがありません。ある時はバイオリンの音色で、ある時はフルオーケストラで。(「波の彼方へ」20221120をyoutubeでシングルカットしてリンク。)
 「どうやって?」を越えていることを日本語で無心と言います。「どうやって?」それが必要のなくなった世界を日本語で「無碍」と言います。
 私が通っていたのは、さをり織りの創始者である城みさをが開いた、世界中のさをり織り教室の総本部「さをり広場」でした。そこでは時折り、「無心に織る展」と呼ばれる作品展覧会が開かれます。そのネーミングは正鵠を得たものだと感じました。「無心に織る」それが「さをり織り」の原点だと想えたからです。
 「さをり広場」にはふたりだけ、作品に不思議な紋様の出る織り手がいました。
透明な海の浅瀬に眩しい陽光が突き刺すと表面の波は陰影を描いて、底の砂地にその波紋が映ります。その光の波紋のようなものが、織物に浮き出て、実際に常にゆらゆらと動くのです。
その織り手は、ふたりとも知的障碍がありました。
言葉で自分を自在に表現できないもどかしさを別の回路で解放するかのように彼女たちは舞うようにしてさをりを織ります。
その時、出てくる不思議に揺らめく波紋。
ある時、「健常者」である指導者たちが話し合っているのが私の耳に聞こえてきました。
「この波紋は、AちゃんとBちゃんとだけに出るのよね」
「どうやればこの波紋が出るのかしら?」
「わからないわよね」
 世界を代表するさをり織りの指導者たちにもそれは「どうやって」するものなのか、わからないのです。自分すらわからないのだから、人に教えることもできないのです。
 しかし、波紋の織り手たちは平然と無心に織っています。
 「何を織っているの?」
 私が尋ねると最低限の言葉で答えてくれることがあります。
 「海の生き物」
 「へえ」
 私はその大きな織物を見つめます。だんだん、南国の海の浅瀬のように見えてきます。そこには名前を知らない様々な不定型な生き物たちが蠢いているようです。
目をこらすと、アメフラシがすすっと、砂底を横切りました。
 「すごいね」
 私はこの「美しい詩」について、それ以上のことが何も言えません。
詩と書きましたが、実は詩文というのは「言葉の織物」です。文も章も和語では「あや」と読む言葉で「綾」という漢字に戻すこともできます。
「綾」とは物の表面に浮き出た得も言われぬ紋様のことを言います。その文(あや)と章(あや)がさらに縦横無尽に織りなされて作られる紋様が文章です。
私もそのようにして「この世に投げ返されて」を織ろうとしているつもりです。
ただ、人には得意、不得意があるようです。私には「さをり織り」は向いてなかったように思います。あるいは、何かが開花するまでに諦めて「これではない」と思ってしまうだけの「縁」しかなかったのかもしれません。
無心に歩くことすらできなくなった私は、無心に織ることができない自分に直面し、さをり広場を去りました。
しかし、そこで学んだことは心の底に静かに沈んで、私の生死の織物に陰影をもたらしてくれているように思います。
生きるとは光の紋様を織りなすことです。
そして死の瞬間に、織って織って織りきった末に完成した織物が、壮大な絵巻物として一瞬の光芒の中でその全体を煌めかせます。
その直後、それは透明な光の中に溶けて見えなくなります。

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