玉虫色の日韓請求権協定が締結するまで

日韓条約の大きなネックとなっていたのは、日韓請求権協定だった。
韓国の政権も安定していなかった中、会談は中断、再開を繰り返し、難航する。

日本側の無理難題な主張は、第3次会談における久保田貫一郎の発言に代表される。
それは
「日本が進出してなければ韓国はロシアよりも中国よりも経済的に悲惨な状況になったはずである。韓国内に残された日本財産は返還を求められるべきものである。ゆえに韓国側の請求権と相殺できる。」
と大きくまとめることができるだろう。

この久保田発言は日韓に大きな亀裂をもたらした。
たとえば、植民地支配の中、物理的強要を伴った「募集」「官斡旋」、法的な強要を伴った「徴用」によって、内地日本人よりずっと劣悪な奴隷的な状態に置かれた名目上の日本人とされた韓国人たちにとって、大きな反発を起こしたのは当然のことだと言えるだろう。(それがどれほど悲惨な状況であるか、あなた自身が資料を跡付けるまでは、日本の功績論を私に対してもふっかけないでほしい。)

そもそも、サンフランシスコ平和条約4条b項により、日本は在韓日本財産の返還を求められないことは自明であった。
それを求めるという主張は植民地支配の犯罪性を認めず、むしろ功績であったという幻想を、世界の潮流に反して勝手に維持し続ける誤った史観に基づくからである。

事態が動き始めるのは、クーデターにより朴正煕軍事政権が生まれ、第6次会談が開始されてからである。
朝鮮戦争などで荒廃した韓国国内の経済復興を急いだ朴正煕政権は、米日との関係改善を急いだ。
そして経済協力方式によって請求権問題を解決するという大枠が示されたのである。
こうして懸念の請求権問題は、本来の個人の請求権から経済復興への協力にスライドされることによって、国家間で民衆の頭越しに合意されるという形をとった。

交渉は山を越えたとされ、続く第7次会談で1965年日韓基本条約が締結されたのである。

その過程を見るとき、日本側は侵略責任の明確な認定・反省をかわしたまま、経済協力によって解決したという立場である。
一方、韓国側は国内的には実質的には賠償であるとして民衆を納得させている。
しかし、いずれにしろ、民衆個人個人は救済されないままである。

(1)日本は植民地支配の犯罪を認めていない。
(2)個々の民衆は救済されていない。
(3)日本が経済協力と認識しているものを韓国は民衆に賠償と説明している。

このようにして、日韓基本条約における日韓請求権協定は、玉虫色の政治的決着であったため、後に大きな尾を引くことになったのである。


それが以下のインタビューで石田純一が1965年の協定に民衆は納得していないと述べていることの大雑把な歴史的説明です。

もしも心動かされた作品があればサポートをよろしくお願いいたします。いただいたサポートは紙の本の出版、その他の表現活動に有効に活かしていきたいと考えています。