見出し画像

透明人間における自己と非自己

子どものとき、ジュール・ベルヌの「透明人間」を読んで、僕は迷宮に入ってしまった。
それは自己とは何であり、非自己とは何であるかについての、自己こそが透明であるがゆえの逆転した「境界の思索」であった。

透明人間においては自己が透明であり、非自己が可視的である。
上着を着れば上着だけが見え、ズボンをはけばズボンが見える。その上に帽子を被り、サングラスをかけて、マスクをつけ、靴を履けば、もはや殆ど透明人間とばれないほど可視的な存在になる。

真っ裸のまま、りんごを手にとると、りんごだけが宙に浮かんで見える。
そのりんごを食べると口の中で嚙み砕かれたりんごがまだりんご性を強く有している間、りんごの破片として見える。
が、りんごが消化されるにつれて、りんごはりんごから自己へと変容していき、透明の中に溶け込んで見えなくなる。

いったいいつからそのりんごは自己となったのであろうか。胃の中で胃液によって溶解され、吸収されていくときに? 
いや、本当に胃の中で完全に消えるのであろうか。
一部はまだりんご性を有したまま、可視的なりんごの破片として、腸に運ばれていくのではないか。
小腸ですべて消えるのであろうか? 大腸に運ばれてなお、変形したりんごである部分はないのか。

そして透明人間が糞をするとき、少なくとも肛門からひりだされる糞は、非自己として再び可視的になる。
しかし、その糞はいつから非自己だったのだろうか。
肛門からひりだされるその瞬間に、何もない場所からにゅるにゅると非自己の糞が姿を現すのであろうか。
それ以前、まだ腸にあるときから、それは異物として、ひりだされる予定の非自己としてそこにあったのではないか。

りんごは一旦は完全に自己となり、消えたのであろうか。
それとも一度も自己に溶けず、非自己としてのりんごから、非自己としての糞に変容していった部分が存在するのだろうか。
だとしたら、自己の内部には常に非自己が含まれ、透明人間が完全に不可視になることはない。
消化されない何かがいつも非自己として通過している。

サナダムシその他の回虫はどうなのだろうか。
無数の菌やウイルスはどうなのだろうか。
癌細胞は自己なのか、非自己なのか。
尿や精子はどうなのか。
もしも精子が自己であるならば、それは射精されても見えない。
射精された瞬間に見え始めるのならば、亀頭を離れたその瞬間に非自己化するのだろうか?
それとも精子や卵子はまだ他者ではないために目に見えず、その両者が結合した瞬間に新たなる生命となるため、透明人間が遺伝的なものでない限り、その受精の瞬間からそれは可視化するのだろうか?

自己は見えず、非自己は見えるというこの不可思議な設定は、副産物として、自己と非自己の境界についての、めくるめく迷宮に少年を迷い込ませた。
そしてそれは透明人間という設定があってもなくても、何が自己で何が非自己なのかという問いに繋がっていた。
皮肉なことには、透明人間という設定は、自己と非自己の境界についての考察の、可視的な扉となったのである。


もしも心動かされた作品があればサポートをよろしくお願いいたします。いただいたサポートは紙の本の出版、その他の表現活動に有効に活かしていきたいと考えています。