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戦後障碍者運動の生き証人たち (1)在日コネクションの奇遇

2019年6月18日の日記

今日の宴会はすごかった。
時間を勘違いして遅れていった僕は二時間ぐらいしかいなかったが、その間に聞いた話は、とても一回では書き切れないと思うので、とりあえず(1)と書いた。

まず、なぜこの宴会に誘われたのか。

一、二年前だったと思うけど、どぼちょんフェスという音楽フェスに参加しているとき、小雨が降ってきた。
僕は電動車椅子のバッテリーを水濡れから守るためにビニール袋をかけていた。
しかし、風が吹いて、そのビニールが飛んだ。
そこへひとりの女性が駆けよってきて、ビニールを拾った上、持っていた輪ゴムで止めてくれた。

あとで、ミュージシャンのセッティングの間にその人と話すと、在日韓国人でK・Jというと名乗った。
障碍のある娘さんを連れていて、音楽をしているのと言っていた。(今日、そのKゆなちゃんの歌を聴いた。あまりにもよかった話はあとでする。)

後記

ゆなちゃんの歌のことは、ここに書きました。
絶対音感の美 YunaのYou raise me up(宴会の感動番外編)

その日、KさんとFacebookを交換した。

今年に入ってからだったと思うけど、KさんがFacebookで嫌韓的な言葉を投げつけられていたので、僕がコメント欄に車椅子釜山旅行で韓国人がいかに親切だったかの原稿のリンクを貼った。
これだ。

Kさんがとても感激して、メッセンジャーで「これをもっとシェアしていいか」と聞いてきたので、僕は日韓友好のために書いたので本望ですと応えた。
そのKさんから先日、突然、宴会の誘いのメッセージがあり、メンバーが書いてあった。
それで障碍者運動に詳しい人にそのメンバーの名前を言ったら、「すごいメンバー!」と言っていた。

今日がその宴会の日だったが、僕は時間を間違えていて、遅れて行った。

僕が遅れて到着すると、「ああ、あびちゃん!」とKさんが呼びよせ、テーブルのメンバーを僕に紹介してくれた。
まず生野子どもの家で娘さんが一緒だった娘さん(今は二十歳前後)と、そのときからのママ友。(ご本人の娘さんと娘さんがふたり来ていた。)
生野子どもの家の当時の園長。
生野子どもの家というのは、僕も名前を知っている保育園で、逆統合教育で有名だ。
簡単にいうと、初めは障碍児の保育所として始まったが、その中身があまりにも素晴らしいので、障碍がない子も来るようになり、障碍があってもなくても共に学ぶ保育園として有名になった。

子どもの家というのは、マリア・モンテッソーリがイタリアに孤児など学習に遅れのある子のために作った施設で、モンテッソーリ教育の源になった。
このことは教員採用試験の教職教養の教科書には絶対に書いてあり、教員になりたければ、モンテッソーリ=子どもの家と丸覚えする勉強をした人は多い。
しかし、モンテッソーリ教育が何なのか、彼女が何ものなのかを詳しく知る教員など、ほとんど皆無だ。
ちなみに僕のふたりの子どもはアメリカの保育園で言葉がわからないため不適応を起こしたあと、モンテッソーリスクールに転校させたら、すっかり適応した。
(この場合、英語がわからないというのは、その子と環境の間にある「障碍」である。
だから僕はDAISY絵本には多言語絵本を含むべきと主張しているのである。)

僕はモンテッソーリに改めて興味を抱き、園長の部屋で英語の本を借りて、四苦八苦しながら研究したものだった。
モンテッソーリ教育の基本ビジョンは次のエッセイに僕が書いたものと大きく重なると思う。

ただし、モンテッソーリ教育は、現代のアメリカでは少しいびつになってしまっているところもあるのは確かだ。
もともと学習に遅れや障碍があっても、内発的な動機で興味を持って活動するうち、学習が進み乗り越えていけるように開発されたのが、モンテッソーリ教材だ。
そのゆえにそれは言葉もわからない赤ちゃんでも学べるところからどんどん学べる教材としても役立つものになっている。
それを早期英才教育に用いるというゆがみはなきにしもあらずなのだ。

話戻って、とにかく生野子どもの家関係の人たちを紹介された時点で、僕は一時そこで仕事をしていた人を二人知っていたが、そのうちの一人、K・Sさん(在日韓国人)を知っていますか?
と、当時の園長さん(70代くらいの男性)に聞いた。
すると、「ああ。知ってます。あびさんは、K・Sさんの知り合いらしいよ」と園長さんは、K・Jさんに声をかけた。

と、Jさんは、「え、やっぱり、Sちゃんの友達のあのあびちゃんって、(今ここにいる)あびちゃんだったの」と言った。
小泉訪朝の後、拉致問題がマスコミで連日の騒ぎになり、生野の朝鮮人学校の女生徒がチマチョゴリを切られるなどの被害も起こっていた。
そのとき、K・Sさんは在日の子どもたちに被害が及ぶことへの批判をブログに書いた。
すると、K・Sさんへの激しいバッシングが始まり、彼女のブログは大炎上した。
一日10万人アクセスなども起こり、クラッシュしてしまった。
しかし、それでもK・Sさんへの激しい攻撃は2CHを舞台に続けられ、次々とスレッドが1000を越え、第何板目へと進み、キリなく続いた。

「あの時、Sちゃんの友達だという、あびちゃんという人がSちゃんの援護の論陣を張り続けていた。あのあびちゃんが、(今、目の前にいる)あびちゃんだったの!? Sちゃんは私の親友だったの。3年前に亡くなったの」

Jさんの目に涙が浮かんでいた。

あの時、Sさんは自身の写真や、子どもの写真も2CHにさらされ、脅迫され、誹謗中傷、セクハラ発言も続いた。

これはひどいと思った僕はあのとき、日本にいる在日韓国朝鮮人への攻撃はおかしい。ましてや子どもへの攻撃はおかしい。という論陣を張り、誹謗中傷を批判し続けた。

あれから、政権は、必ず解決するといさましいことを言い、北朝鮮を批判し、日本のナショナリズムの高揚に拉致問題を利用し続けた。しかし、実際のところ、拉致問題について、いったい何をやったというのだろう。

今では、「政権は拉致問題をナショナリズムに利用しているだけだ!」と途中で目覚めた蓮池透さんが、今度の選挙で、山本太郎の「れいわ新選組」からの立候補を表明するに至っている。


それにしても、なんじゃ、今日の宴会のこの繋がりは?

あの時、風が吹いてバッテリーをカバーしていたビニール袋が飛ばなければ、僕はJさんと出会わず、この話を今夜することもなかった。

ちょっとすごい展開じゃないかと思ったが、まだこれは、この宴会の序の口だったのである。(つづく)


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