魂の螺旋ダンス 改訂増補版(17)

(17)で扱う節
・ 日本における超越性宗教
・ 親鸞の神祇不拝・国王不礼
・ 空海における即身成仏
・空海の蝦夷観
・ 親鸞の蝦夷観

・ 日本における超越性宗教

ここで今一度日本における「超越性宗教」について観察しておきたい。

見てきたように、インドにおける仏教は、既に早い時期から超越性宗教の精神宇宙を開いてきたと言える。
だが、その仏教が日本に伝来したとき、その最初の時点から、超越性宗教としての仏教が日本に根づいたと考えることはできない。
伝来した仏教はまず当時の国家体制と結びつき、鎮護国家の国家仏教として、その歩みを始めたのである。

一方、仏教芸術の発達は早くから見られ、このことは日本人の芸術的感性の豊かさを表している。
が、そのことがすなわち、超越性宗教の誕生を意味しているわけではない。

二十世紀を代表する世界的な仏教者のひとりである鈴木大拙は、その著『日本的霊性』の中で、日本的霊性の目覚めを鎌倉仏教に見出すべきだと述べている。
日本の大地性と外来思想の超越的な次元が統合を果し、日本的な土壌の上に真の霊性(超越性原理)の花が開いたのが、鎌倉仏教であるという見方である。

私の言葉に言い換えるなら、日本における真の超越性宗教の誕生は、鎌倉仏教において成就したと言えよう。


即ち、個が直接的に超越性原理につながる回路を開き、地上の権威を徹底的に相対化していったという意味で、これまでに述べてきた超越宗教の特質をいかんなく発揮している宗教思想は、日本では鎌倉仏教においてはじめて観察されるのである。

鎌倉仏教の各開祖(法然、親鸞、道元、日蓮、一遍・・・)は、裸の個人=探求者として、それぞれの側面から超越宗教の次元を見事に花開かせた。

殊に、「個と超越性原理の直接的回路」という面では、いずれの開祖も、他に引けを取らない。


だが、「地上の権威の相対化」という面では、親鸞思想に私はその最もラジカルな様相を見てとる。そこで、やはり、親鸞思想に日本における超越宗教を代表させつつ、論を進めていきたい。

鈴木大拙は『日本的霊性』において言う。
「いかなる罪業も因果も悉く絶対者の大悲の中に摂取せられていくというは、彼の超個霊観である。かくの如くに超個己の霊性を体得した親鸞一人こそ、日本的霊性の具現者であると言って甚だ妥当であると、自分は信ずるのである」

ここで親鸞一人というのは、鈴木が親鸞を絶対視していたことを意味しているのではない。
ここは、歎異抄の「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」という親鸞の言葉を連想する場面である。

つまり、「超越性原理」から「個」に向かって直接開かれてある「解放への回路」を「一人がために」と表現しているのである。
そして、その回路は、同じ直覚を持つすべての個に向かって、「一人がために」「直接」「無条件で」開かれてあるというのが、超越宗教の根本原理だと言わなければならない。(イエスが神のひとり子であるという言明も、この次元で捉えることができると考える。)

同じ著の別の箇所で、鈴木は次のように述べている。
「霊性的直覚なるものは、まず個己の霊において可能である、即ち一人の直覚である。ところが神道には、集団的・政治的なものは十分にあるが、一人的なものはない。感性と情性とは、最も集団的なるものを好むのである。それは集団の上にみずからを映し出すことによりて、みずからの存在が最も能く認められるのである。霊性的直覚は、孤独性のものである。」

ここで鈴木は、民族宗教と創唱宗教の相違について、ある光を当てているわけである。
私なりの言い方に換えるなら、個的で直接的な回路を通じてのみ、単なる情緒的な次元を越えて超越的な精神宇宙が明らかにされうることを述べているのである。

そういった意味では、教派神道は、その創唱的な性格において注目される。
が、その提示する世界観が、超越性の次元に達しているものなのか、部族シャーマニズムや国家宗教の枠組の中にあるものなのかは、各個別に検討が必要であろう。

鈴木の神道批判は、この『日本的霊性』のほか、戦後に書かれた『霊性的日本の建設』にも、より顕著に見られる。
(ただしジョアキン・モンテイロなどの論者は、鈴木の論には象徴天皇制を華厳思想に基づいて支える側面があるとし、その不徹底を批判している。『日本的霊性からの解放 -信仰と歴史認識・菩提心の否定と浄土真宗』)

鎌倉時代という時代を精神文化史の文脈から見るとき、「東日本の大地性の復権」という側面に目が行く。
日本の歴史を大雑把に、「西の弥生文化が、東の縄文文化を侵食していく過程」と見るとき、鎌倉時代は、東の縄文文化復興の時代であるとも言える。
この時、仏教思想と大地的な要素のぶつかり合う強いスパークの中に、鎌倉仏教の星たちが誕生したのである。


・ 親鸞の神祇不拝・国王不礼

さて、親鸞思想は、超越性原理において地上の権力を徹底的に相対化した。シャーマニズム的なるものも、国家宗教的なるものも、もろともに超出する立場を、鮮明に表現している。

例をあげよう。

『正像末和讃』には「かなしきかなや道俗の良時吉日えらばしめ天神地祇をあがめつつ卜占祭祀つとめとす」とある。

天神(天津神)も地祇(国津神)も崇めず、卜占も祭祀にも依拠しない、ただ超越性原理だけにつながって、負の自覚において無条件に解放された個としての宣言と言えるだろう。

また『教行信証』(化身土巻)には『菩薩戒経』の引用として「出家の人の法は、国王に向かいて礼拝せず、父母に向かいて礼拝せず、六親に務えず、鬼神を礼せず」と記されている。

さらに『教行信証』後序には、朝廷の念仏弾圧に抗議した親鸞が「主上臣下、法に背き義に違し、(ふん)を成し怨を結ぶ」と、超越性原理としての「仏法」の下に明確な天皇制批判を行っているのが窺える。

このように見てくるとき、親鸞思想の思想史上の意義は、内面的には「負の自覚の徹底における、裸の個人の無条件の救い」という地平を開いたことと同時に、その当然の展開として社会的には「神祇不拝」「国王不礼」という立場を明らかにした事にあると言わねばならない。

歴史学者の家永三郎氏は、この点を重視し、親鸞の天皇制批判について明記した歴史教科書を執筆したが、文部省から修正が求められた。

家永氏は修正を拒否し、裁判の争点の一つになったことは記憶に新しい。
裁判は、親鸞研究を代表する歴史学者たちによる激しい論争になったが、結果として国側の論証が破綻し、家永側の勝利となった。

だが、不思議なことに、親鸞の天皇制批判を重視した教科書は、家永三郎の『新日本史』が最初で最後のものとなっている。

結果、歴史教科書において、日本仏教最大の宗派である浄土真宗の開祖の歴史的意義は、仏教の大衆化といったあたりにおかれている。
超越性宗教の誕生が意味する「内面的」「社会的」意義は、隠蔽されていると言うべきであろうか。


・ 空海における即身成仏

ところで、真言密教の大成者である空海はこの国の仏教を考える上で避けては通れない巨大な人物である。

私の考えでは、親鸞を論じると同時に空海を論じ、空海を論じると同時に親鸞を論じなければ日本仏教を語ることはできない。

これには異論もあるだろうが、私は今仮に平安仏教の極を空海に代表させ、鎌倉仏教の極を親鸞に代表させて、平安仏教と鎌倉仏教の照らし合わせを行うことが可能だと考えるのである。

この二人の巨人が互いを照射し合う光景の中で、日本で独自に発達成立した「日本仏教」とはいったい何なのかということが、おぼろげながらも「立体像」として立ち現れてくるのはないかと思うのだ。

もちろん親鸞と空海の照らし合わせという仕事は大事業であり、私はここで一気にその仕事を片付けてしまおうというわけではない。

ただ私は現時点での考えをここにメモしておきたい。
そのことを通じて、超越性と大地性という二つのベクトルから生じる螺旋についても、別の角度からの光が当たると考えるからである。

さて、空海の成し遂げた仕事は多岐に渡り、その要約は非常に難しい。
が、私はここでは、その思想的精髄を『即身成仏儀』の中の「重重帝網を即身と名づく」という句に見ておきたい。

帝網(因陀羅網)とは、帝釈天(インドラ神)の宮殿を荘厳する網である。
その網のひとつひとつの結び目には、皆宝珠が付けられていて、その宝珠にはほかのすべての宝珠が映っている。
またその映じている宝珠のうちにもすべての宝珠が映っている。無限の反映とその交錯の壮大なヴィジョンである。

もっともこのヴィジョン自体は華厳の世界観である。
が、空海はこの世界観を単なるイメージとして終わらせなかった。
彼は、心身変容の技法の具体的実践において、この身そのままが「帝網」であることに目覚め、体得した。宇宙大の事事無碍円融、重重無尽なネットワークそのものである自己に目覚めたのである。

これが即身成仏である。

空海においてはもはや「重重帝網」は経典に描かれた詩のようなものではない。

それは即ちそのままこの身なのだ。壮大なる宇宙的ネットワークと一つとなったこの身。空海は因陀羅網を観念的な思想に終わらせるのではなく、行法によって「この身」の上に具現化したのである。

ここで重要なことがひとつある。
それは空海の心身変容技法に関わることだ。
空海が「重重帝網」を「即身」において成就できたのは、密教の哲学によってではなく、むしろ若き日の山林修行を基礎にしてのことである。

つまり空海はこの島のシャーマニズムの心身の変容技法(修験)との出会いを通じてこそ、仏教の世界観を自らの身に実現したのである。
超越性と大地性を見事に結びつけ、豊かでかつ無限の自在性を得た世界を開陳したのである。
それこそが彼の最大の思想的実践であり、達成であったと私は考える。

だからこそ空海の影響力は非常に大きく、この島のその後の仏教(超越性宗教)も、修験(シャーマニズム)も空海抜きには語りえないと言っても過言ではない。

だが、では空海は国家宗教の次元を突き抜けて、地上の権威のすべてを相対化する超越性の次元へと突き抜けたのだろうか。

これは非常に複雑な問題である。教科書的な歴史では、空海らの平安仏教は鎮護国家の仏教であると分類されるが、もちろん事柄はそれほど単純なものではない。
見てきたように「即身成仏」は壮大で深遠な思想的実現である。
宇宙的なレベルでの自己解放である。

だが、どうだろうか。仏陀やイエス、さらに親鸞に見てきたような「パラドキシカルな究極点」における「自我の瓦解」はここに見られるだろうか。
むしろ「即身」という用語の「この身このままで」といったニュアンスは、超越性宗教の垂直運動よりは水平方向への巨大な抱擁性を感じさせはしまいか。

私の考えでは、実はここに空海思想の特異な性質がある。
空海の思想は、仏教の範疇にありながらも、超越性の方向へ鋭い運動を見せるよりはむしろ限りなき抱擁性に向かって広がっているのである。
「壮大さ」という意味では史上最大の規模を有しながらも、垂直的な超越性のベクトルは強くはなく、その替わりに限りなく水平に広がるシャーマニズムの性格を色濃く持っているのだ。

結果、空海の思想的実現は「超越性宗教」の特質を有するものではないと言わなければならない。
そしてその「垂直的な超越運動が重視されていない」という特質は、「地上のすべての権威を相対化していく働き」が不徹底となるという特質につながっていく。
このことが社会的側面においてはどのような問題を派生していくかは、次節で考察してみたい。

・空海の蝦夷観

さて、「地上の権威の相対化」が不徹底であることは、社会的な認識においては重大な差別意識を温存させる可能性とつながったものである。

空海の主著である『遍照発揮性霊集』の第一巻「野陸州に贈る歌」にある次の漢詩を見てほしい。そこには列島東方の蝦夷(えみし)に対する目を覆いたくなるような差別意識が反映されている。

「田せず衣せず、麋鹿(びろく)を逐(お)い、晦もなく明もなく、山谷に遊ぶ、羅刹の流にして、人のともがらに非ず(田を作らず、織物もせず、トナカイや鹿を追いかけ、夜も昼も山谷で遊んでいる。鬼の類であって、人間の同類ではない)」

「蝦夷は非人である」という言葉は、当時の「一般的な認識」を反映したものなのかもしれない。
その意味では空海が特別の差別主義者であったというわけではないだろう。
彼もまた時代的制約の中にいたと言えばそれまでである。

だが空海が一般人と異なるところは、その差別意識を「見事に完成された美文(漢詩)」にのせて定着させたという点にある。
それは確信的な思想的な営みであって、影響力が大きいだけに見過ごすわけにはいかないものだ。

また『性霊集』第三巻「伴按察平章事の陸府に赴くに贈る歌」では、空海は蝦夷について「豺心蜂性(さいしんほうせい)」(狼の心と蜂の毒針のように人を刺す性を持った存在)であると罵詈を投げつけている。
そして「人面獣心にして、朝貢を肯ぜず」(顔は人間で心は獣であって、朝廷に服属しようとしない)」と深く嘆いている。

一方、第六巻で空海は時の天皇について「今上陛下、体は金剛を練し、寿は石劫よりも堅からん」と美辞麗句を連ねて賛美している。
それらを合わせて考えるとき、蝦夷を差別し、天皇中心の国家を賛美するために、自らの文才を駆使する空海の姿がそこに浮かび上がってしまう。

いずれにしろこの時代の仏教は、平安朝の蝦夷侵略を正当化するイデオロギーと見事に呼応したものだった。

殊に天台宗を興した最澄は早くから桓武天皇と結びついていたため、蝦夷侵略の過程で政治的に果たした役割は空海以上に大きかったと言わねばならないだろう。
実際、蝦夷討伐の命を受けた征夷大将軍坂上田村麻呂の行く先々には、天台宗の寺社が数多く建設されていく。

蝦夷侵略をもっとも強引に押し進めた天皇である桓武帝は、七八五年日本で最初に「祭天」の行事を行った。
「祭天」とは、天子が天帝の意に従って異民族を統治し、世界を支配することを宣言するものである。

その場所には、桓武帝の母方の百済人にゆかりの深い河内の交野が原が選ばれた。
また桓武帝は、蝦夷に対する徹底的な侵略を行い、そのことによって世界性のある国家を実現しようとした。

大局的に言うならば、それらの背景にあるものは、広い意味での「中華思想」である。
すなわち、自らが世界の中心であり、すべての異民族=「未開部族」を支配する天命を受けているという思想である。

桓武帝の命令で蝦夷征伐に乗り出した坂上田村麻呂は、ついにアイヌの英雄アテルイを捕らえる。
桓武はその斬首を命じる。
一介の戦士としてアテルイとの友情に目覚めていた田村麻呂は、泣く泣くアテルイを斬首したという。

その地もまた、平安京ではなく、交野が原である。
祭天を行った土地で、異民族のチーフを斬首する。
これは、緻密に計算された壮大な思想的パフォーマンスと見ることもできる。

平安仏教はそのような平安期の朝廷の思想と行動を、結果的に側面から支えた存在となった。
政治的には最澄と桓武天皇の結びつきが強いわけだが、空海思想が潜在的に有していたものも同様であり、この思想的限界は長くこの島の精神文化に影響を残したと言わねばならない。

司馬遼太郎の小説『空海の風景』に描かれた空海は、長安留学を通じて、ある種の世界性を得たとされている。

「かれがのちにその思想をうちたてるにおいて、人間を人種で見ず、風俗で見ず、階級で見ず、単に人間という普遍性としてのみとらえたのは、この長安で感じた実感と無縁であるまい」と司馬は書いている。

しかし、『性霊集』に見られる差別思想から見るならば、空海が長安で得たのもは、真に普遍的な意味をもった「世界性」などではない。
彼がそこで学んできたもの一つは「中華思想」であると言わざるをえないであろう。

そして平安朝は、日本で最初に徹底した中華思想に基づいて行動した王朝であった。
この島において、超越性のベクトルが未だ強くなかった時期の仏教は、このようにして神道とともに(あるいは時代によっては神道以上に)国家イデオロギーを支える大きな基盤となっていった。
それゆえそのような時期の仏教について、私は「螺旋モデル」の宗教類型において「国家宗教」に分類せざるをえない。

しかし、なぜ空海はそのように蝦夷を差別せねばならなかったのか?・・・私の思いは複雑である。
前節で考察したように空海は、この島の山林シャーマニズムの心身変容技法との出会いを通し変性意識を体験し、その果てに即身成仏を具現化したはずである。
「心身変容技法が伴う」という点は、密教の最も重要な要素と言ってもいい。

私の青年時代に起こった密教ブームも、若者の「心身変容技法」への関心が引き起こしたものであった。
言葉の次元だけの思想ではない、宇宙的な変性意識体験への人々の深い関心が、繰り返し繰り返し、密教への関心を呼び覚ますのだ。

空海は仏教を中国伝来の経典の知的理解だけに終わらせず、この島ネイティブ・ピープルのシャーマニズムと結びつけることで変性意識体験を現実のものとし、そのことで仏教と修験道の両方の流れに大きな足跡を残したのだ。

またその変性意識体験は山川草木との感応や、時には金星などの天体との感応にも支えられたものであり、ネイティブ・ピープルのアニミズム的な感性とも深く呼応しあうものであった。

しかし、それならばなぜ。なぜ、空海はそれほどの恩恵を与えてくれたネイティブ・ピープルに対して、「恩を仇で返す」ような、差別的な発言を残したのか。

桁外れの思想的巨人であった空海は、限りなき抱擁性でこの島のあらゆる精神文化を抱きとる溶鉱炉になりうるかのようにも見えた。

だが、その内部には蝦夷に対する強い差別意識が醸成されていた。
この時代のこの島では、空海の天才をもってしても(壮大で華麗な思想的総合はありえても)十分な超越性の運動を孕んだ思想は、まだ誕生しえなかったということなのだろうか。

・ 親鸞の蝦夷観

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