イマジンは部族シャーマニズムではなく、超越性宗教

(『魂の螺旋ダンス』より)

・ イマジン

 部族社会の人々は、地球規模の愛に生きていたのではなかった。
 彼らには彼らなりに真摯に生きていたのだが、いかんせん彼らは狭い世界と視野しか有していなかった。

 現在の私たちが部族シャーマニズムを思う時、私たちの脳裏には、宇宙から見た地球が浮かび、各地の多様な部族社会が平等に見つめられている。
 私たちには、地球的視野はいわば当たり前のことになっている。
 そのため、部族シャーマニズムに、自分がわれ知らず「地球意識」を付け加えていることに気づきもしない場合もある。

 だが、部族社会の人々の脳裏には、丸い地球はなかった。
 彼らは、自分たちの行動範囲が世界のすべてだと考えていた。
 その外側は滝になって奈落の底に落ちているなどと信じていた。

 現代の私たちは、自らの頭の中における観念的な操作で、部族シャーマニズムからマイナス面を差し引き、啓蒙主義以降の人権思想、平和主義の発達や、地球規模のエコロジー思想、文化多元主義の上に接木することができる。
 部族シャーマニズムの長所だけを取り入れ、それを現代思想の世界に配置し、統合することができる。
 だが、そこに現時点での達成を加味していることを忘れるならば、過去に理想を一方的に投影することになる。
 史観としては円還思想がそこに生まれる。

 部族社会ロマンチストたちは、たとえばジョン・レノンの「イマジン」という歌に歌われたイメージと、部族社会のイメージとを混同していると言えるかもしれない。
 「イマジン」は、国境のない地球という星に平和に暮らすすべての人々を歌う。確かに部族社会の人々の視野には、国家というものはなかった。だが、そこにはまた地球という視野もなかったのだ。

 実際には、「イマジン」の世界は、部族社会からは、何度も螺旋を巡った果てにあるものだ。
 国家が生まれ部族社会を統合する。
 超越性宗教が生まれ、国家を超える視点を示す。
 だが、その超越性宗教はやがて絶対性宗教と化して地球規模の侵略を開始する・・・。

 「イマジン」は、殺戮と略奪に満ちた歴史の果てで、それらのすべてを超えていくことを希求して歌われた歌だ。
 それは、人類がはじめて地球の外から地球を見てから十年後の一九七〇年に発表された。
 その時にはすでに青く丸い地球の姿は、私たちの共有するイメージとなっていた。

 「イマジン」は、「地球ヴィジョン」がなければ誕生しえなかった歌だ。
それは、国家も超越性宗教も超えた意識の地平から「平和に共に暮らそう」と歌われる。

 ジョン・レノンは国家や超越性宗教を知らないのではない。
 その向こう側に出ることによって、今ここに、還ってきたのだ。

 そこには、自分のパートナーや隣人への素直な愛と共に、各地で暮らすすべての人々を「地球の外から」見つめるやさしいまなざしがある。
 その両者が、「地球意識」において統合されている。

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