アテルイ塚のウソ(大阪府枚方市)

この記事の「アテルイ塚」にまつわる元原稿「今を生きる街、神話に生きる街」は、私の地元、大阪府枚方市のローカルインフォメーションペーパーLIPに執筆したものです。
発表後、専門用語や読めない漢字が多く、難解という意見をいただきました。そこで、ふりがなを振ったり、(  )にできるだけ解説をいれてみました。また、元記事の文章は限られた紙幅の中で早口だったので、今回は紙幅を気にせず、丁寧な説明を試みてみました。


今を生きる街、神話に生きる街

ジョン・レノンは「イマジン」で「想像するのだ、すべての人が今日のために生きていることを」と歌っている。

ザ・ブルーハーツは「トレイントレイン」で「世界中に建てられてるどんな記念碑なんかより、あなたが生きている今日はどんなに意味があるだろう」と歌った。

人は自らの今ここに自信と安心を得られないとき、歴史に集団としての権威を求めようとする。その心の動きがナショナリズムの根底にあるのではないかと私は考えてきた。

しかし、中司元市長のマニフェストには次のような宣言があった。

「自治体も都市間競争の時代に入り、市民が永住を望み、また、新しく枚方市へ住みたいという人たちを呼び寄せるためには、まちの魅力や個性の向上が求められています。
枚方市には様々な魅力と個性がありますが、江戸時代から京・大阪を結ぶ淀川三十石船の中継港として栄えた舟運の歴史もその一つであり(中略)そのほかにも、天の川七夕伝説や古代蝦夷の英雄アテルイ終焉の地伝説、日本に漢字を伝えた王仁博士の墓など、豊かな伝承もあります。
今後、そうした歴史や伝承などをまちづくりに生かし、新たな観光ルートの開発や市民参加で取り組む新たな「まつり」の創出など、まちの魅力と個性の向上に取り組みます」

ジョン・レノンやザ・ブルーハーツが歌うのとは逆に「住みたいまちとしての都市間競争に勝つためには歴史や伝承によって魅力と個性を向上させる」と言うのである。

私は現在の市民が今を充実して生きているまちであればそんなことは考えないと思うのだが、どうか?

いや、歴史を学問的に探求するのは、いっこうにかまわないのである。
しかし、根拠のない伝承をもって、なりふりかまわず史跡を捏造し、「まつり」を「創出」していく様子を見ていると、なぜそこまでするのか?と首をかしげずにはいられない。

今の生活や政治の実態から目をそらし、偽りの誇りを集団で持とうとする草の根ナショナリズムの心理を私はそこに見るのである。

王仁塚が捏造されたものであることは別稿に譲るとして、ここでは牧野公園のアテルイ塚について検証してみよう。

(ここまでは、意識して、全枚方市民・全読者に向けて書きました。が、ここからの論証はある程度、歴史に関心がある人のための文章になってしまったかもしれません。
今回この記事では、できるだけわかりやすくするために地名にふりがなを振ってみます。さらに最初に発表したLIPの紙幅の関係で早口になっていたところを丁寧に説明します。)

(さらにわかりやすくするために、最初にこれから何を論証しようとしているかを説明しましょう。
現在大阪府枚方市では、アテルイ斬殺の地について、「宇山」(うやま)であるという説に従い、その地の牧野公園に碑を設けています。
これは斬殺の地名に関する、いろいろな写本のうち、「植山」(うえやま)と書いてある写本が正しいという説に基づいています。
その「植山」(うえやま)が音韻変化したものが現在の「宇山」(うやま)だという考証です。
しかし、以下にアテルイ斬殺の地が「植山」(うえやま)という写本の信憑性がいかに低いかを論証していきます。)

神英雄の1988年の論文「蝦夷梟師(えみし)阿弖利為(アテルイ)・母礼(モレ)斬殺地(ざんさつち=斬って殺された場所)に関する一考察」の眼目は次の点にある。

斬殺地名について「日本記略」写本には三つの異字がある。
「杜山」(もりやま)「植山」(うえやま)「椙山」(すぎやま)である。
以下に論証するが、神英雄はこのうち「椙山」(すぎやま)こそが本来のものであることを考証した。
そのために彼は「日本記略」の24本の写本に実際にあたって検討した。

アテルイ斬殺の地についての地名の記述された部分が含まれている「日本記略」の写本は約30本ある。
そのうち、神英雄のあたったのは、24本であるから、その大部分であるということができるだろう。
この24の写本中には「杜山」(もりやま)と記述されているものはない。
新訂増補国史大系「日本紀略」は「杜山」と書いている。
この書籍は、久邇宮文庫本を底本としたと明記している。
ところが久邇宮文庫本にはその地が「植山」であると記述されている。
ただし、それはくずし字になっており、注意を怠ると写し間違える。
新訂増補国史大系「日本紀略」は、久邇宮文庫本を底本としたと言っているのだから、この「杜山」は「植山」のくずし字を写し誤ったものにすぎないのである。
従って「杜山」(もりやま)がアテルイ斬殺の地の地名であるという説は最初に消える。

その上で、神英雄は、残る「植山」(うえやま)と「椙山」(すぎやま)という記述について、24本の写本の系統を分析した。
「植山」(うえやま)を採る写本は4種類であった。
重要なことは、そのいずれも奈良興福寺門跡の一条院の伝本に求めたものか、それに関連した同一系統のものであることが判明した点である。

これに対して「椙山」(すぎやま)は、全部で10本の原本の系統がある。
それを一本の系統に還元するのは困難である。
まとめると、遡っていくとき、
アテルイ斬殺の地を「椙山」(すぎやま)とする原本からの系統は十本ある。
それに対して「植山」(うえやま)とするものは、奈良興福寺門跡の一条院の伝本たった一本に集約されてしまう。
誤記であるか意図的であるかは問わず、この一本しかないものが正しく、十本の原本の系統があるものが誤りとするのは、大変無理がある。
これらのことから神英雄は「日本紀略」の原本に掲載されていた文字は「椙山」(すぎやま)であると結論する。
この論証は大変説得力のあるものである。


よってこの論文集が発行された1988年の時点で、「植山」(うえやま)という記載を根拠にして、さらに音韻変化等の仮説を重ねたにすぎない「アテルイ斬殺地=宇山(うやま)説」は、殆ど意味を失っていたのである。
牧野公園のアテルイ塚は、学問的には非常に信憑性が低いと言わねばならない。

(以上で牧野公園のアテルイ塚がニセモノであることの論証は終わっています。)

だからこそ、1993年の枚方市議会では、ある議員の執拗な首塚の保存要請に対して、当時の社会教育部長が「枚方市としては歴史的根拠のない場所を確たる証拠もないのに、アテルイの墓にはできませんし、説明板なり、顕彰碑を建設すべきではないと考えます」と明言したのである。


(この頃まで枚方市の社会教育部は忖度で動くのではない、志をもったまともな人が多かったということができます。
その後、枚方市の教育界には全国の動きと同調するかのような歩みで、大きな変化が起こってしまう。
それは自民党社会党(当時)公明党などによる統一候補である中司市長(その後清掃工場にまつわる収賄事件などで失脚、現在は大阪維新の会に転身して、府会議員に返り咲いています)の誕生とともに始まっていきました。
中司市長と、市長と強いつながりを持っていた中野教育長が行なったのが一連の「教育改革」です。
その「教育改革」では、教職員組合つぶし、統合教育(「障碍児」と「健常児」がともに学ぶことを重視する教育)つぶし、君が代・日の丸強制などが人事にまで及ぶ強制力をもって恐怖政治的に行われていきました
そのような「教育改革」の中で、社会教育つぶしとしての公民館つぶし(生涯学習センターへの転換)なども行われていきました。
そして多くの骨のある教員や、骨のある社会教育主事が、半強制的に、または仕事の充実感を失って自ら、枚方での学校教育や社会教育から去っていったのです。

こうして骨のある社会教育主事などがいなくなり、市長のイエスマンばかりになった市議会で牧野公園のアテルイ塚建立や毎年の祭りが市の事業として、行われていきます。

そのような決定が行われた市議会の議事録原本に、私はネット検索であたっているので、議員の名前まですべて特定しています。
このような議事録からは、枚方市の教育改革が、社会教育部をいかに変質させてしまったか、その一端を窺うことが可能でした。
元記事に戻ります。)


中司市長と強いつながりを持った中野教育長が主導した「教育改革」により、社会教育の分野においても、公民館制度の廃止など多くの「改革」が断行されるのである。

そして、その中でそれまで枚方市の社会教育を担ってきた多くの人材が、時代に押し流されて職を去るに至ったのである。

そんな中、中司宏は、歴史や伝承を活かしたまちづくりというコンセプトを打ち出す。

こうして2005年市議会では、H(堀井勝)議員が中司市長の「熱い思い」や民間の動きを根拠に、アテルイ塚に対する行政の支援を要請したのに対して、
M理事兼文化産業部長が「アテルイの記念碑の設置につきましては、伝承文化を活かした町づくりとして意義あるものと考えております」と答弁するのである。学問的根拠も何もあったものではない。
「熱意」と「伝承」だけで歴史を捏造することが可能ならば、そのまちは神話の国ならぬ神話のまちになり果てたというべきではなかろうか。

(次に私はLIP記事で「椿井文書に当たればいろいろなことがわかる」と歴史学に志ある若者に示唆しました。
ここは、先に述べた「植山」(うえやま)を採る4写本はいずれも奈良興福寺門跡の一条院の伝本に求めたものか、それに関連した同一系統のものである。」ということと深く関連しています。
なぜなら椿井の仕事の多くは興福寺の依頼によって近畿の歴史(由来)を捏造するためになされたものだからです。

元記事に戻ります。)


ところで、馬部隆弘の「偽文書からみる畿内国境地域史~椿井文書の分析を通して」など一連の椿井文書研究には大変興味深いものがある。

数多くの偽書を捏造した椿井政隆(1770年から1830年)という人物のおもしろいところは、実際の調査や伝承も活かしながら複数の偽書を矛盾のないように作り、いかにも事実であるように見せかける一種壮大な仕事をしたことだ。
なかなかの策士なのだ。

馬部は言う。
「椿井の思想の根底には、近代皇国史観に繋がるものがあり、故に『椿井文書』が大いに利用された。
しかも未だ機能していることに鑑みれば、今後畿内国境地域史を構築するためには、単に『椿井文書』を排除するだけではなく、『椿井文書』が引き起こした諸問題を精算していくことが不可欠である。
ましてや単なる観光地化を目的とした『椿井文書』の利用を繰り返してはなるまい」

学者として至極まっとうな発言である。
彼のような人物が市史資料室の研究員であることは、枚方市にまだ一点の良識が残っている証左だ。
私はそこに一縷の希望を見る。

(馬部隆弘とその仲間の研究者たちはその後『枚方の歴史』という書物を著しました。この書物は枚方市ではベストセラー化しました。
そこには(特に馬部の原稿には)、枚方の歴史とされてきたものの嘘の多くが暴かれています。

私は枚方の歴史を調べるときには、馬部氏を頼りにしていました。
市立中央図書館で史料を検索する際、カウンターの司書が見つけることができないと、最上階の市史資料室に馬部氏を訪ねました。
すると、他の司書が発見できなかった論文抜き刷りの薄い冊子などをたちどころにして書庫から取り出してきて、「これです」と手渡してくれたものです。
しかし『枚方の歴史』が刊行されてしばらくして、市史資料室を訪ねると、馬部氏は枚方市を転出していました。
「転出しましたよ」という他の職員に「『枚方の歴史』に素晴らしい論考を書かれたばかりなのに」と私が言うと、その職員はなぜか「あの本は私たちが作ったものではありません!」と言いました。
その目が少し泳いでいたのが、印象的でした。

元記事に戻ります。
結びの一文は再び、全枚方市民・全読者に呼び掛けています。)

私は思うのだ。
今を生きるひとりひとりの市民が住みよいと感じるまちこそ、よいまちに違いないと。
ありがたい(?)由緒があり、由緒に裏書きされた神社や寺や地主が力をもっていて、商工業や教育界がそれらと繋がって幅をきかせているのがよいまちだとは私はけっして思わないのである。

画像1

大嘘であるアテルイ塚


画像3

大嘘のアテルイ塚の前で行われる茶番劇の神事

画像2

アテルイ処刑の所作(神楽)


追伸
この小論をLIPに発表したあと、偽アテルイ塚近辺の牧野商店街の人々にも、神事を行う役の片埜神社にも、市会議員や市役所社会教育課からも、そもそもこの小論を載せてくれたローカル・インフォメーション・ペーパー(評価に傷がついたのだろうか?)からも、私は、「嫌われている」と聞いた。(-_-;)

もしも心動かされた作品があればサポートをよろしくお願いいたします。いただいたサポートは紙の本の出版、その他の表現活動に有効に活かしていきたいと考えています。