さるべき業縁のもよほ「さば」「せば」問題 決着
先にこの問題について書いた。
これについて、推測でほぼ決着したので、いずれにしろこの部分の訳について、次の記事は訂正する必要はないと思いました。
ところがたまたま人に、別件で、鎌倉・室町の頃の日本語で、どんな時、「未然形+ば」や「已然形+ば」が、仮定条件になったり、確定条件になったりするのか聞かれたので、整理してあるものを検索し、以下のものを見つけた。
中世日本語の仮定条件表現について
この論文の整理にあてはめると、『歎異抄』13条の「さるべき業縁のもよほ(さ)or(せ)ば、いかなるふるまいもすべし。」は、「さ」(未然形)であろうと、「せ」(已然形)であろうと、
一般的真理を述べる一般的仮定(B)、または個別的仮定のうち、表現者が、条件が成立していると判断している場合(Aー③)と解釈することができる。
そして一般的仮定と個別的仮定は明確なボーダーはなく、「誰でもこうすればこうなる」と「誰かがこうすればこうなる」の違いは、殆ど同意のことを一般化して陳述するか、いちにんの真実として告白するかの相違にすぎない。
つまり、「さ」であっても「せ」であっても、「さるべき業縁のもよお(さ)or(せ)ば、いかなるふるまいもすべし。」は、
私の『超簡単訳 歎異抄・般若心経』にあるように
「しかるべき業や縁があれば、人はどんな振舞いでもするものなのです」で間違いないというものです。
この部分の私以前の訳の問題点の
一つ目は、
上記リンク「歎異抄訳の問題点」に書いたように、「どんな悪業でも平気でする」(梅原猛訳)、「どんなおそろしいふるまいでもする」(梅原真隆訳)などというネガティブな言葉を勝手に挿入し、ニュートラルな訳になっていないこと。
二つ目は、
「さば」か「せば」かについて、自らが底本としたものをそのまま疑わず、したがってどちらの場合であればどうなるかを検討していない点です。
そのような注釈を見たことがありません。
まず、「さば」「せば」どちらであると主張するのか、どちらであるか未決と主張するのか。
その上で、中世日本語の用法から見てこうなるという確信を持って訳すことをしなければならない。
そうした例を見いだせない点です。
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