親鸞と国家

古いメモ

「わたしひとりの親鸞」古田武彦著 読了。1978年の作品であるが、私のもっているのは、1985年の文庫本初版。約30年ぶりに読んだ。
私が離婚後、すべての蔵書を実家に運び込んだのが数年前。
ここからが蔵書を読み直したり、未読のものを読破しながら、生涯の仕事をまとめる「晩年」と定めたが、時事的な読み物に追われ、やっと蔵書の読み直しが始まったというていたらくである。残された時間はすくない。
30年前、25歳の私がこの書を読みこなせなかったのは無理がない。史料批判に関してはかなり本格的な学術書だ。だが、この本の魅力は、できるだけ史料において本人の真筆にあたり、綿密な史料批判によって、親鸞の思想と生涯にひとり対峙した部分にあるだけではない。
もうひとつにこの本は古田自身の、一見素直で正直すぎるまでの自己告白の書であり、一個の探求者としての自己を語ることにおいて、明快かつ生々しい。その部分だけは25歳の私をも打った部分であった。
今読んでみると古田はこの本を書いた時点で50すぎ。ほぼ現在の私と同年であった。そのわりには、自己告白的な部分は青々しいと言ってもいいほど率直で、一種微笑ましい。しかし、史料批判の部分は私などの素人はとうてい太刀打ちできない。
なるほどそういうふうに研究するものかと参考になったが、今後もそのような研究方法を自分に課す暇なく、死んでいくことはまちがいない。ただ僕のできることは、そのような基礎研究を行った人たちのどの説に、筋が通っていて、信ぴょう性があるかを検討しながら、ずぶの素人として、自分の親鸞論を樹立することのみであろう。
さて、この本は、「主上・臣下、法に背き、義に違す」という親鸞の天皇批判や「国王不礼」の意図を、ごまかそうとするあらゆる屁理屈をよせつけない。
また「朝家の御ため国民のために念仏をもうし合せたまいそうらわば、めでとう候うべし。」という親鸞の言葉をそこだけ切り取り、親鸞が皇室を重んじていたとするあらゆるこじつけを粉砕している。専修念仏集団を弾圧してきた朝家やそこに付和雷同している人々のために念仏するというのは、争いを越えて、この世に生きてあえぐ同じ仲間として彼らのために祈り、自分たちはただ念仏を続けるという、国家超越的な立場をこそ、鮮明にしている。これをこじつけに用いてきた戦時教学や、真宗教団は、深く恥じるべきである。
また恵信尼は、親鸞の叡山脱出の頃からの知己であり、越後で出会ったのではないことの論証にも説得力があった。親鸞の女性関係について、世には一人説、二人説、三人説があるが、善鸞が恵信尼を「ままはは」と名指すことからも、古田説は二人説に落ち着く。私はこれに反論する論を思いつかない。
私がこの本に不満をもったのは、親鸞の聖徳太子讃の姿勢に関しては、偽書説を検討せず、そのままに認めて論を進めているところである。しかし、私は学生のころから、親鸞が聖徳太子を和国の教主と呼ぶのはおかしいと直感した。だが、親鸞が聖徳太子を敬愛していたという説に疑問を投げかける人に出会ったことはなく、反論する手段を持たなかった私はそれを受け入れるしかなかった。残ったのは、ただ「おかしい。そんなはずはない。一貫していない」という感覚だけだった。
そしてそれが史料批判として疑われるのは、実に遠藤美保子「親鸞本人に聖徳太子信仰はあったか」(『日本宗教文化史研究』第12巻2号[通巻第24号]、2008年11月)まで待つしかなかったのである。
この遠藤の研究も、私には独力で行うことなどできなかったものだ。ただ、私はこの論を読んでその信頼性を検討することはできる。そうすれば私の35年間の疑問、「親鸞が聖徳太子を敬愛するなんておかしい」はやっと氷解するのかもしれない。
2015年まで生きた古田は、晩年、この論を読んだだろうか。少なくとも私は読んで自説に組み込むことのできる幸いを得た。
私は死ぬまでには「親鸞と国家」あるいは「国家を超えた親鸞」といったような書物を書かなければならない。それはまた今ある浄土真宗の教団というものの在り方をも、根源的に撃つものになるだろう。
古田の成し得なかったその仕事をずぶの素人としてなし得るチャンスに私のような者が恵まれたのは、遠藤を初めとする多くの基礎研究、史料研究の学者のおかげである。私にあるのは問題意識と直感、基礎研究の信ぴょう性をテキストから検証することだけなのに。
基礎研究、史料研究の学者の先生方には、深く感謝したい。

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