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「哲学の蠅」を読んでるとき

吉村萬壱「哲学の蠅」を読んでいるとき、7年前のこの書き込みを思い出した。

 皆50をいくつも過ぎた 旧友たちとの鴨鍋パーティは案の定、夜明けまでの文学談義、人生談義、恋愛談義、その他秘密会議に及んだ。
 最初のうち、それは何十年も繰り返してきた互いの視点の違いの提示、確かに相互理解は少しずつ深まっているものの、明らかに異なる部分の照らし合わせに見えていた。何にこだわり、何をもっと見つめたいと感じ、何を偽善と感じるかが、互いに違っている。それは多くの場合、言葉の次元ではなるほどと思いつつも、どこか深いところで平行線を辿る。
 が、今回、今までとははっきりと違う深部が照らし出されたと感じられたところが確かにあった。
 それはそれぞれの親がもう死のうとしている。その親との関係性に、親の人生のおわりまでにどのように決着を付けようとしているかが、吐露されたからだと思う。
 そのときに見えてきたのは、互いの人生観の違いとして見えていたものには、それぞれの親との関係性で形成された影響がくっきりと刻み込まれていたということであった。個々の問題について、視点の相違としかいいようがなかったものの背景には、実は親との関係性の問題が横たわっていたのだ。
 そして各自はそれを解き明かそうとして、それぞれの試みを続けていたのだ。(文学作品を書いていようと、そこからは足を洗った生活人であろうと。)
 そしてそれはそれぞれが追求する課題としてはそこを掘っていくことでよかったわけだが、もう親が死のうとしている今(僕の場合は父は既に死んだが)、さらにそこを掘ると同時にそこからさえ自由になって、新しい地平に出るのもありだと、自分に対しても互いに対しても思った。
 と同時に僕は子どものふたりいる自分と、子どものいない他のメンバーとの視点の相違というものも感じたと言っておこう。
 この朝まで談義は、魂の下っ腹に、これからじわじわと効いてくるかもしれない。

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