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この世に投げ返されて(7)~臨死体験と生きていることの奇跡~ 

 日本の仏教各派の中で最も信者の多いのは浄土真宗です。浄土宗を含めると、もっと多くの仏教徒が「浄土教」の信者ということになります。
 もっとも、その中には、熱心な念仏行者から、家の宗教がそうだが自覚もしていないという人まで含まれています。
 それにしても、浄土という日本語は、それら浄土教の宗派の枠も越えて一般的です。
「死んだらお浄土へ行く」という考えは長い間、日本人の精神世界をゆったりと包み込んでいたといえると思います。
では、その浄土とはいったいどういうところなのでしょうか。
それについては、浄土真宗でも浄土宗でも共通して用いられる浄土三部経の一つ『阿弥陀経』=(原題は『極楽の荘厳』)に精しく説かれています。
西方極楽浄土は阿弥陀仏の仏国土であるとされています。
昔の人々は阿弥陀仏の姿を光り耀く人格神のような姿で想像し、そのような方が、夕日の沈む果て、西方極楽浄土に鎮座されているとイメージしていたのでしょう。
しかし、私は臨死体験の際そのような方と会ったわけではありません。
極楽の様子の描写に精しい『阿弥陀経』を含む『浄土三部経』には思春期から親しんで読んできたにもかかわらずです。
会わなかったという言い方もできるし、臨死体験のイメージを想起して表現するときにも、私には『阿弥陀経』などの描く極楽のイメージを援用するのは、不自然なことでした。
昔の人はともかく、近代社会に生きる私たちにとっては、その極楽が西の彼方に、描かれたとおりの世界として実在するとは、到底信じることはできません。

では、私はいかなる意味においても「浄土」というものに逝かなかったのでしょうか?

この阿弥陀仏という言葉はもともと「量ることのできない限りなき智慧と生命」という意味のインドの言葉に由来しています。
それを金色に輝く仏像の姿で表現すること自体、ある種の「偶像崇拝」と言えるのではないでしょうか。
ここで私は天親菩薩の『浄土論』に注目します。
天親菩薩は、経典に描かれた浄土のしつらえ(荘厳)というのは、つまるところたった一句に収まると論じています。

その一句とは「清浄」です。

浄土の特徴をもし一句だけで表すのならば「清浄」、それに尽きるというのです。その天親の『浄土論』の詳しい注釈書『浄土論註』を書いた人に曇鸞がいます。
 天親の『浄土論』。曇鸞の『浄土論註』。
その二人の名前から一字ずつをもらい受けて名告りをあげたのが「親」「鸞」という浄土真宗を開いたとされている人です。
その親鸞もまた主著『教行信証』の証巻において、この天親の言葉を受けて、究極的には「清浄」こそが浄土のしつらえ(荘厳)であることを改めて強調しています。
浄土の特徴をその一句にまとめるのは、具体的なイメージを駆使して語るよりも遥かに普遍性を持った叙述の仕方なのです。

そして、私にとって最も重要なことは、それならば、私の臨死体験と一致するということなのです。
これまでも述べてきたように、この世に蘇生してから、人は再び活動しはじめた脳によって様々なイメージで死後の世界を詩的にあるいはストーリーとして再構成します。
私はそれらのすべては、傾聴すべき「その人自身の回想の中での真実」であると尊重します。
しかし、具体的なイメージを越えて、その共通した姿を一句に収めるならば、それは「清浄」というしかないというのは、とても普遍性の高い表現なのです。
また、親鸞は『唯心鈔文意』において阿弥陀仏について
「かたちもましまさず、いろもましまさず、阿弥陀仏は光明なり。光明は智慧のかたちなりとしるべし」と述べています。
「(阿弥陀仏には)形もなく、色もありません。それは量りしれない光です。その光とは限りなき智慧の姿だと知るべきなのです」というのです。

私が臨死体験で経験したのも次のような「色も形もない光=覚醒」でした。
そこには「私」という意識はなく、自他不二(じたふに=非二元的な)の覚醒だけがありました。
ただただどのような碍(さわ)りもなく澄み渡った覚醒が全時空に広がっていたのです。
 
親鸞の語る阿弥陀仏は、私にはまったく人格神のようなイメージを結びません。
『末燈抄』という消息(手紙)から引いてみましょう。

無上仏と申すは、かたちもなくまします。
かたちもましまさぬゆゑに、自然(じねん)とは申すなり。
かたちましますとしめすときには、無上涅槃(むじょうねはん)とは申さず。
かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すぞ、ききならひて候ふ。

 (長澤訳)
無上仏(この上なき覚醒そのもの)には形はない。
形もないからこそ、自然(じねん)「ただただあるがままに」というのである。
形がある姿を現わすときには無上涅槃(むじょうねはん)「完全なる解放」とは言わない。
形もないありさまを知らせるために、はじめて弥陀仏(限りなき覚醒を私たちに伝える報身としての仏)と言うのだと、聞いて習いました。

もう一か所引いてみましょう。

弥陀仏は自然のやうをしらせん料(りょう)なり。
この道理をこころえつるのちには、
この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。

(長澤訳)
阿弥陀仏(限りなき覚醒をそのように名づけ表した報身仏)は自然(じねん)「ただただあるがままに」という在り方を身につけさせようとするための料(アート)である。
この道理を体得した後には、「ただただあるがままに」ということを常にあれこれ言葉で考えることはいらない。

このように色も形もない覚醒そのものを無上仏の実相としていたからこそ、親鸞は阿弥陀如来の木像などを本尊とせず、「南無阿弥陀仏」または「帰命尽十方無碍光如来」という名号を書いた掛け軸を本尊として布教していたのです。
ふたつの名号はそれぞれ六字の名号、十字の名号と呼ばれますが、意味は同じです。
ただ、南無阿弥陀仏はサンスクリット語の音写(発音を漢字で表そうとしたもの)であり、「帰命尽十方無碍光如来」は意訳(意味を漢語に訳したもの)なのです。

それを今一度、現代日本語に訳し直すならば、
「あらゆる方向に何の障りもなく沁み渡り無限に広がる智慧と慈悲の光にすべてをまかせます」
という意味になります。
この「あらゆる方向に何の障りもなく沁み渡り無限に広がる智慧と慈悲の光」こそ、臨死体験の真実相でした。

後に私はソウルメイトとも言うべきパートナーから驚くべき証言を聞きました。
回復してきた私が自分の臨死体験を「宇宙のすべてに覚醒が沁み渡ったような感じだった」と述懐したときのことです。
彼女はこう語ったのです。
「実は自分もそんな感じだった。長澤さんが宇宙のすべてに浸透しているのが感じられた。そして完全に静寂な世界にいるのがわかった。ただ、こちら側から見ると、それはとても淋しいことでもあった。」 

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