イザヤ書は真の預言書

 本田哲郎の『イザヤ書を読む』の読書メモが、FACEBOOKの「〇年前の今日を振り返る」からぽろぽろ出てくるので、資料に残しておく。
 『魂の螺旋ダンス』改訂増補版読みやすいバージョンに「メタノイア」(悔い改め)の真意については書いたけど、「イザヤ書は真の預言書」という節も加筆しようかと思う。

以下「イザヤ書を読む」読書メモより

 正義(ツェダカー)と裁き(ミシュパト)とは、イザヤにおいて、「弱者の側に立って痛みを共感するところから物事を判断し、不当に抑圧され、奪い取られている権利を取り戻すとともに、富と権力の座にあるがゆえに真実が見えなくされている人々をそこから引き降ろして、共に平和のために働けるようにする」ことだということは、先に述べた。
 本田哲郎は書いている。
 「しかし、もし、神の救いの力である正義と裁きの実践ではなく、富と権力のエジプト帝国に頼るなら、頻発するナイル河の氾濫に巻き込まれるように、彼らの抑圧と搾取の「洪水」に、昼も夜も押し流されるはめになるとイザヤは警告します。エジプト帝国が提供する安全保障の「寝床」は、安心して寝ていられるようなものではないことをはっきりと告げます。」(「イザヤ書を読む」p106)
 このエジプトをアメリカに読み替えたら、今の日本の状況として読めるであろう。

 「イザヤ書を読む」より。
 「民は少数派であること、弱者の立場にあることを誇りとし、そこに両足を踏まえて戦えばよかったのです。国家としての体面、繁栄、力を維持しようという思いからではなく、民の中の最も小さい者、弱い者を守るために、どうすればよいかという視点に立って、外圧(アッシリア)に対して対応すればよかったのです。
(中略)
 修道会も活動グループも、数が増えて組織が完備されないと不安で落ち着かず、人材と資金獲得に勢力を注ぎます。しかし、福音の価値観から見れば、小さく、貧しいグループの精一杯の働きのほうが、ゆとりのある大きな団体の物量活動よりも、はるかに力強く、人々への影響も大きいというのが実感です。自然発生的な草の根の無数の小さな活動グループが、その小ささゆえに弱者との共感が得られることを認め、その微力さを積極的に肯定し、組織としてではなく、ネットワークとして横に連帯していくことこそ、最も福音的であり、神の救いの業に協力しやすい状態を保つことになるのです。」

  「イザヤ書を読む」読了。
 よい本だった。第9章「解放はすべての人に」にこうあった。
 「果たすべきことの第一は正義の実践です。悪(レシャー 不正な抑圧)による束縛(足枷)を断ち、権力者が自分たちに都合よく統御するために人々の肩に取り付ける「軛」のひもの結び目をほどいて、正義に反する管理統制によって虐げられている人を解放することです。そしてついには抑圧の構造をもつ管理体制そのもの、「軛」を「折る」(ナタク 打ち壊して使えなくする)ことです。
(中略)
 果たすべき第二のことは福祉の活動です。」(p218)
 これは意識的にこの順に書かれている。なぜなら読み進むとこうあるからだ。
 「福祉的な対応はそのつもりがなくても、憐れみや同情から出る「施し」になってしまいがちです。福祉活動だけが先走って活発になればなるほど、与える側ともらう側というおかしな位置関係ができてしまうものです。むしろ、弱者の人権尊重を主眼とした社会正義のための活動と戦いの中にこそ、福祉は位置づけられるものと言えるでしょう。」(p219)

注 今の現実態としてのキリスト教の殆どを僕がどれだけ嫌っているかは、まったく別の話です。


メタノイア(悔い改め)


もしも心動かされた作品があればサポートをよろしくお願いいたします。いただいたサポートは紙の本の出版、その他の表現活動に有効に活かしていきたいと考えています。