たとえば八功徳水を訳す
八功徳水
「安らぎの極まるところ」には七つの宝石でできた池があって、「八功徳水 充満其中 はっくどくすい じゅうまんごちゅう」
その中には八つの功徳のある水が充満している。
と『阿弥陀経』には書かれている。
僕の『浄土真宗の法事が十倍楽しくなる本』では、八功徳水を八つの優れた性質を備えたエネルギーと訳している。
なぜなら、ここで水と言われるものは、灌頂(かんじょう)において水がエネルギーの象徴としてそそがれるように、実はエネルギーのことだと思うからだ。ギリシア哲学者のヘラクレイトスは万物は火で出来ていると言い、タレスは万物は水でできていると言った。科学の未発達なおバカな時代と思うなかれ。火や水はエネルギーのことを言葉でそう表したまでだ。実はアインシュタインがE=MC2(エネルギーは質量×光速の二乗)と言ったときと同じことを言っているのである。
ともかく、八功徳水を僕はこう訳した。
澄み渡って浄らかなるエネルギー
冷涼で爽やかなエネルギー
甘美でとろけそうなエネルギー
軽みがあって軟らかく自由自在なエネルギー
潤いがあり豊かであふれかえるエネルギー
安らぎがあって和やかな静かな充足に満ちたエネルギー
飲むと魂の飢えが癒やされるエネルギー
飲み終えて活力が増しあらゆることを可能にするエネルギー
その根拠は、『称讃浄土経』(『阿弥陀経』の異訳)に八功徳水の性質として、澄浄・清冷・甘美・軽軟・潤沢・安和・除患・養根とあるからである。
このように『浄土真宗の法事が十倍楽しくなる本』の下段の超簡単訳はいちいち他の文献を参照して、仏教学的に根拠をもって訳しているが、一切、注釈を付けず、さらさらと訳してある。
読むこと自体が、八功徳水を飲むごとくになるのを目標に。
コメント
全部の意味をわかって味わって経典を読むこと・聴くことは、本来、音楽を演奏する・聴くのと同じである。詩を詠むこと・聴くことと言ってもいい。
この本に、いちいち注釈をつけると、大部になり、それを解説すると、大学での仏教学講義一年分になる。
逆にいうと、この本に注釈をつけてないのは、お坊さんに法話する余地を残してあるので、
『称讃浄土経』(『阿弥陀経』の異訳)に八功徳水の性質として、澄浄・清冷・甘美・軽軟・潤沢・安和・除患・養根とあり、それをここではこう訳してあるのですね・・・という法話に使っていただいたら、いいのである。
ぜんぶ書いてしまうと、法話の余地がなくなって、怒られるかと思って・・・。(^_^; 一般読者は注釈なんか読むの、面倒だしね。
「安らぎの極まるところ」の光景の脱神話化は、やりすぎると教学と違うと言われる可能性があるのですが、文字どおりこんなところがあると思っている「原理主義者」はほとんどいないでしょう。そのあたり、教学的にどうなっているのか、くわしく知らないのですが、僕は色もなく形もない世界の荘厳を詩的に描くことに関して、ぎりぎりの線をいったつもりです。(^_^;
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