死にたいと思わない社会を

facebookに死ぬ権利という言葉がおかしくないかと投稿したところ、
自由が大事だという趣旨のコメント(も)あったので改めて一から説明した僕のコメントを転載します。

人類の人権思想の発達の歴史において
自由権、社会権が
「発見」され、
保証されてきました。
憲法25条は社会権の一部を構成します。
もし自由権だけで構成される社会なら、一切税金をとる必要がありません。
それならある意味、辻褄は合うと思います。
今の日本は、社会権の保証のためと称して税金や年金社会保険料などを無理やり徴収し、実際にはそれを憲法25条の生存権(社会権の一部)のために用いず、一部の層の利権のために使っています。
災害でも、感染症でも、自己責任であったり、差別されるだけで、受益がないなら、税金も社会保険料、健康保険料も集めなくていいんです。
だから、まず社会権のために正当に税金を使うには、たとえば憲法25条で保証されている生存権が保証される必要があります。
そうであれば、社会の価値観において、いざというときはあらゆる手立てで救済され、そのことは負担に思う必要がない。
そのような社会であるとき初めて死ぬ権利が、周囲からの「社会に迷惑をかけている荷物は死ね」という圧迫から独立した自由であることが、保証されます。
この書き込み及びコメントの数々は、
勤労、納税等の義務があるのに
憲法25条の生存権が保証されないなら
死にたくなるのも無理がない社会であり、
その国で、生存権が未成立なまま、死ぬ権利を言い始めることのおかしさをついています。
たとえば災害避難所の写真を見れば、日本の災害対策が諸外国に比べいかに遅れているか一目瞭然です。
災害だから、自由に死ねではなく、勤労・納税などの義務を果たしたときに、自由権と社会権がまず保証されないといけません。
国が何を義務として課しつつ、どんな時に自由や自己責任を口実に棄民するかを見ておかないといけません。

奴隷船 約束の島|長澤靖浩 #note https://note.com/abhisheka/n/n86b0ac76d6d1

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