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蝶の降る星 仕切り直し(1)から(15)

蝶の降る星 1

 極彩色に光る羽をひらめかせて飛び、透明な鱗粉を振り撒くその蝶は、古来サトリと呼ばれていた。

 約百年前、「近代化」が大陸の東の果てに到達すると同時にその生息域を喪い、絶滅したと言われている。

 N3289567という番号で呼ばれている「非国民」の少女は、サトリが両の羽を広げた美しい姿を、孤児のための厚生施設の数少ない蔵書の中、分厚い図鑑の頁に発見した。その図絵は写真なのか、CGなのか、定かでなかった。

 いつしか、N3289567にとって、その姿を眺めることは、娯楽の少ない施設の中での大きな楽しみになった。

 N3289567は幼い頃に両親が行方不明になり、親戚の家を転々としてきた。その挙げ句、十歳の頃、この施設に収容された。

 施設の食堂の隅には木製の本体に擦りガラスの扉の、子どもの背の高さほどの本棚があった。本棚の観音扉は、毎週土曜日の午後、「図書の時間」と呼ばれる時間に職員によって鍵が差し込まれ、開け放たれた。

 古びた書物特有の埃っぽい匂いが食堂の片隅に流れ出す。

 「図書の時間」の参加は自由だった。毎週一〇人ほどの本好きな子どもたちがその本棚の前に一列に並んだ。N3289567は自分の順が来るまでに、その図鑑が誰かにとられてしまわないか、いつもどきどきした。

 だが、子どもたちが我先にと奪い合うのはたいてい、男の子は正義と悪の死闘が繰り広げられるバイオレンスコミックス、女の子は自信を持てない少女が王子のような少年と結ばれるまでを描くラブストーリーであった。

 「絶滅種図鑑」。その本は毎週、N3289567の胸に抱きかかえられた。N3289567はそれを抱いたまま、食堂の片隅、窓際のテーブルに移動して、他の子どもたちと離れて座った。

 図鑑を開いたとたん、かつてこの星を彩り、今はもう二度と見ることのできない、多様な命がめくるめく姿を繰り広げた。

 そしてその中でも、サトリという名の蝶は、いつも気が遠くなるほど美しかった。

 N3289567はその羽が無限の色合いに煌めくのを見つめていると、万華鏡のように回転し始めるのを感じた。

 するとN3289567の意識はふいに熱帯雨林の鬱蒼とした木々の上を飛んでいた。それはN3289567にとって両親と離れて暮らす現実を忘れ、美しい蝶の姿になって自在に風と戯れる、特別な時間だった。

蝶の降る星 2

 その不思議な蝶は、N3289567の生まれるずっと以前に絶滅されたと言われていた。

 だが、その姿を自分は確かに見たことがある・・・その既視感が時々彼女を見舞うことがたびたびあった。

 いったい、いつどこで?

 暗闇に目を凝らすようにして、記憶の彼方、脳の深部を探っても、セピア色の光景はあまりもぼんやりとしている。だが、そこには父や母の談笑する背中がおぼろげに浮かび上がり、談笑する声さえ聞こえた。

 心のどこか奥深くで、サトリの美しい姿は父母との楽しい幼少期と結びついているようだった。だからこそ、N3289567はサトリにこれほど惹かれるだろう。

 父の呼ぶ声がする。それはN3289567という番号ではない。彼女には両親がつけた名前があった。その名を呼ばれると、彼女は駆け寄って父の膝の上に飛び乗った。ごわごわした掌が彼女の頭髪を掻き撫でる。

 すると記憶の部屋の中の何もかもが虹色に煌めいて光り、粉々に砕け散った。すべてを席捲するかのような風に光の粒子は浚われて、もうそこにはN3289567も存在せず、父も母も存在しなかった。

 窓の外の眩しい太陽の光に目を細めながら、N3289567は施設の食堂に還ってきた。

 随分遠くまで、長い間旅をしてきたようでもあり、ほんの一瞬のことのようでもあった。 施設職員が両手を打ち合わせる硬質な音がする。

 「はい。今日の図書の時間は終わりです。一列に並んで、順に本を元あった場所に返します。いいですか。間違えずに、元あった場所に返すのですよ」

 N3289567の心臓が高鳴る。この時間が来るたびに頭の中がくらくらして真っ白になる。このままこの図鑑をセーターの裾に隠して抱きかかえ、食堂を出ていきたい。その考えが浮かぶと、N3289567は魔に憑かれたように別の自分に変容していくようだった。

 だが、ざわざわという子どもたちの声が耳に蘇ってくると、行動を起こすよりもわずかに速いタイミングで「正気」が戻ってくる。N3289567は「絶滅種図鑑」をセーターの外側に抱きかかえたまま列に並ぶ。

 いつか自由に使うことのできる自分の通貨を手に入れることができたら。

 必要最低限なものを与えられ、それ以上のことを望む心を毎日のように「これでもか」と砕かれるこの施設の中で、N3289567の中に「システムを逸脱した欲望」というものが生まれたとしたら、それこそが「初発の欲望」と名付けることが可能であった。

 通貨が欲しい。通貨があればこの本を発行元から取り寄せることができる。N3289567は列に並びながら、いつものように本の発行元の名称とネットアドレスを網膜に焼き付くほど見つめていた。

 だが、施設で育つ小学生が「通貨」と呼ばれる特有の記号を個人所有する方法は実際上、存在しないと言ってよかった。それどころか、外界との取引きに必要な人工知能端末自体、ここの子どもたちには私有することが許可されていなかった。

 だが、堅固で隙のないシステムとして完成しているように見える「帝国」にもいくつかの風穴があるのをN3289567が知る日は意外にも近かった。いや、それは期せずして生じてしまった綻びなどではなく、支配する「灰色の男たち」のために故意に作られていた抜け道だったのかもしれない。

蝶の降る星 3

 「近代システム」が覆い尽くした社会においては、すべての人々の手の甲に、誕生と同時にICチップが埋め込まれていた。

 人々は「近代システム」が張り巡らした高度管理システムによって完全に管理されていた。地上のどこにいようと、人工衛星のGPS機能によって彼らの居場所や言動は「システム」によって把握されていた。
 従っていかにしても、人は境界の外に脱出することは不可能だった。

「近代システム」が及んでいる限りにおいての「国境」を越えることは身体的にも言論的にも不可能だった。そうしようとしたとたん「システム」は、その存在の行動を把握し、ICチップに小さな爆発を起こすことができた。

 ICチップから流れ出したシアン化合物が血流に乗ると、彼らは数分のうちにショック死する。

 このことにおいて、「システム」内部の人々に例外的存在はなかった。そこには後に述べる「世の人」と「非国民」の差違は認められなかったのだ。

 ただ次のような二種の異なる立場については説明を要するであろう。

 「世の人」と認められない人たち、すなわち施設育ちのN3289567のような境遇の子どもたちや、思想犯を中心とする犯罪者たちは「非国民」という名前で一括して呼ばれていた。

 彼ら「非国民」は、自らが人工知能端末を所有することを許されていなかった。端末を操作して、人工知能の広大なネットワークにアクセスし、情報を得たり、発信することはできなかった。にも関わらず、ICチップ機能によって、「世の人」同様の管理支配のみを一方的に受けざるを得なかったのである。メリットを得ることなく支配だけを受ける奴隷か家畜のごとき存在だったのである。

 だだ、一定の条件をクリアして「世の人」と認定された存在だけが、自らが人工知能ネットワークにアクセスする端末をもまた所有することが許されていた。

 実のところ、「世の人」の意識においてはそれは対等な取引きだった。「システム」の中に生きる利便性と引き替えにICチップを受け入れるのは、野生動物とは異なる人間という社会的生物として当然のことであり、彼らにはそれを自発的に受け入れたという意識があった。それがいわゆる「文明人」であるということだという自負があった。

 施設から近接の中学校に通うようになったN3289567は、一年生の教室の休み時間に、一般家庭から通学している「世の人」であるクラスメートから人工知能端末を見せてもらう機会に恵まれることになった。

 たとえ「世の人」であっても、小学生にはその所有は認められていなかったので、中学に進学して初めてN3289567はその存在を知り、特別に触れることさえ許してくれる友達に出会ったのである。

 それは丁度掌に収まるほどの大きさの電子機器であった。「システム」内のすべての電子機器が拠点ごとのサーバーを通して互いにつながり合い、広大なネットワークを形成していた。彼らはそれを通じてあらゆる情報をやりとりしていた。初めてその複雑で精緻な機能をデモンストレーションして見せてもらった際の驚きをN3289567は忘れることができない。

 ただし「世の人」が「非国民」に人工知能端末を操作させることは、述べてきたように表向き、禁忌であった。「システム」が、個体のICチップのコードを識別しているため、端末を「非国民」が自ら操作することは不可能だった。

 だが、「システム」はそこに故意にいくつかの抜け穴を作り出し、許容していた。いや、逸脱そのものを操作していた。

 具体的にはたとえば「赤線」または「管理売買春」と呼ばれる機能などいくつかの機能だけは、逆に「非国民」としてのチップのコードを読み取り、「非国民」が操作しないと作動しなかったのである。

 「女の体は通貨を得る手段となりうる」

 N3289567の掌の中で人工知能端末がそのデジタル文字を踊らせたとき、N3289567はごくりと息を飲み込んだ。

 通貨。「世の人」が様々な手段を通じて大量に入手している特有の記号の名前である。N3289567がいつかはそれを手にいれ、自分の望みの実現のために利用したいと幼い頃から切望してきた禁断の木の実である。それが自分にも手に入るのか。自由に使用できるのか。

 「次へ」を指でタップすると、説明が続いている。説明に目を走らせ「次へ」をタップする。見開いているN3289567の目に驚いた友達が「何?」と端末を取り戻して掌に持つと、その画面は瞬間的にブラックアウトした。

 「なに? どうしたの?」

 「ごめん。少しの間、端末を自由に触らせてもらえないかしら」

 「あ、そうか。わかった」

友達は頷いた。

「非国民の扉でしょ?」

「えっ?」

「非国民が端末を触ったときに開く特別な扉があるって、端末授与式の時に習ったの。そういうときは黙ってしばらく非国民に端末を触らせてあげることって」

「そう? たぶん、そのことなんだと私も思う」

N3289567が言うと友達は端末をN3289567の掌にぽんと載せた。

「どうぞ。システムの中では、すべてのカーストに意味と役割があるはずだものね」

 中学校の門を出て坂を下っていくと途中に長いトンネルがある。トンネルを潜ると施設のある谷間に降りていく坂道がさらに続いている。

 孤児施設、障碍者施設、死を待つ人々の施設、精神病院。それらは皆、そのような谷間にあった。「世の人」の住む「世の中」とは、隔絶され、覆い隠されていた。

 谷間からトンネルを潜って、「世の中」に出て、人々と接触を持つことは著しく制限されていた。むしろ孤児施設の子どもたちは例外的にこのトンネルのこちら側にやってくることが許されている存在だったと言えるだろう。

 なぜなら、谷間の「非国民」の中では、最も「生産性」に繋がる可能性を潜在させていたからである。彼らの中には、才能や特技がある者もいれば、幼い頃から男を狂わせるような美貌を有している者もいた。いわば彼らは、谷間の「非国民」の中では「世の人」に貢献できる可能性を秘めていたのだ。

 「非国民」出身者の中には、(その活動は強い規制を受け、加工されているにしても)芸能人やアーチストも多かった。「非国民」は、土方などの肉体労働に日雇いされ、必要がなくなると解雇される労働力の倉庫でもあった。また愛人や娼婦、水商売に従事する美しい女性も多かった。

 N3289567は中学校の校門を出ると、丘陵地の「良家」に帰っていく「世の人」である友人たちと別れ、トンネルへの坂道を下っていった。

 トンネルの出入り口の関所のおじさんが窓口からいつもの淫靡な目で愛海を見つめた。N3289567は大人の男からそのような小暗い目で見つめられることが最近、滅法多くなった。

 そんなとき、N3289567は体が硬直し、冷たい汗が肌に浮かぶのを覚えた。それは限りなく不愉快な瞬間でもあり、その底には微かな快感が眠っているようでもあった。

 ある意味では男たちはN3289567を視姦する暴君であり、別の意味では男たちはN3289567を崇め、ひざまずき、懇願する哀れな生き物だった。

 そのふたつの性質が男の中で目にも止まらぬ速さでシャッフルされるとき、N3289567の中でも不愉快さと微かな快感のふたつの波が混じり合って、白い波頭が砕けた。

 「ああ、あの眼だ。あの眼が今日はいつもよりもっとギラギラしている」

 N3289567が視線を体いっぱいに浴びながらその前を通り過ぎようとすると、おじさんが珍しくN3289567を呼び止めた。

 「N3289567」

 「えっ?」

 「こっちへ来なさい」

 大人に逆らうという選択肢を教えられたことなどないN3289567は、吸い寄せられるように関所の窓に近寄っていった。狭い室内と外界を隔てるガラスの小窓は開かれていて、近づくとおじさんの口臭がN3289567の鼻をつんと突いた。

 「関所の裏手の応接室でお客様がお待ちだ」

 「お客様?」

 「人工知能端末のアプリを通じて、下着を売る約束をしたね」

 「あっ。はい」

 「そのお客様がお待ちだ」

 言うと、おじさんは関所の外壁にあるドアを開いた。手招きされてN3289567がそこから中を覗くと、黴臭い匂いがした。

 谷間へのトンネルのある小山に生い茂った樹木から滴り落ちる水滴や湿気のせいなのか、この関所の小屋はいつも何かしらじめじめとしたようなところがあった。

 「向こうのあのドアだ」

 おじさんは奥への通路を指さした。真っ白な両開きのドアがあり、それはこの関所自体の貧相な造りから見ると不似合いだった。

 何の躊躇も不安も愛海にはなかったというと嘘になる。だが、孤児として生きていく道を歩む覚悟は既にN3289567の中に確固たるものとして成立していた。

 N3289567は初めて関所の建物に足を踏み入れた。通路の奥の豪華な白い扉には唐草模様の木彫があり、まるで別の世界がその向こうに広がっていることを予感させた。

 N3289567は初潮を経験してまだ間もない華奢な体を、どこか異国を思わせるその扉に向かって、一歩ずつ運んでいった。

 白い扉を両側に開け放つと、N3289567は一瞬眩しさに目を細めた。光の氾濫に目が慣れると、がらんとした空洞の奥のカウチに恰幅のいい紳士がふんぞり返るように座っていた。

 眩しいと感じたのは天井のシャンデリアの光だ。施設と学校を往復する生活の中で、学校を越えて街へと足を運んだことのないN3289567は、シャンデリアを図鑑以外で初めて見た。

 細かなガラスの巧みな彫像を組み合わせたそれは天井から下がった複雑な枝振りの樹木に無数の光の蝶が止まっているようにも見えた。実際、よく見るとその精巧な細部は、無数の蝶が羽を広げている形をしているではないか。

 しかも、その蝶はカッティングの妙によって光の反射で虹色に煌めいている。視線を動かすと極彩色の光の波紋が揺らめきながらシャンデリアの上を走った。

 「近代システム」は自分たちが絶滅させてしまったサトリという名の蝶を心のどこか深層で追い求め続けている。その部屋のシャンデリアを見たN3289567は機会あるごとに浮かべたその考えを改めて思い起こした。

 人々はその蝶と共にあった心の飛翔を破壊し、忘れ、抑圧し、それでいて別の回路を通じて求め続けることをやめない。それ故にありとあらゆる手段でそれを人工的に再現しようとする。それはいったい人間というものの、どのような「見えない深み」から湧き上がる渇望なのだろうか。

 「扉を閉めなさい」

 カウチの上の男はしわがれた声で言った。振り返って両手で扉を閉じ、もう一度向き直すと、男はカウチの前に立ち上がっていた。上背が思った以上にあったためか、N3289567は少なからぬ慄きを覚えた。

 「こっちへ来なさい」

 N3289567はおずおずと部屋の真ん中を進んだ。シャンデリアの真下を過ぎると自分の影が足元から前方に伸び始めた。影が少しずつ伸び人の形になると、その輪郭をシャンデリアの放つ虹色の光がオーラのように包んでいる。

 男はN3289567に向かって透明な袋を差し出した。N3289567は黙って受け取った。その青いジップロックの付いた袋の中には桜色のレースのパンティが入っていた。

 「履き替えなさい」

 「ここで?」

 「そうでないと、君が履いていたものであることの証明ができないだろう」

 N3289567は先に袋の中の桜色のパンティを取り出した。それからおもむろに体をくねり、片足ずつをあげて、紺色のスカートの下の白くて素朴な施設のパンティを脱いだ。続いて間髪をいれず、桜色のパンティに足を通した。

 恥じらいに満ちたその動きを男は不気味な笑みを浮かべながら見つめていた。N3289567は空っぽのビニール袋に脱いだばかりの白いパンティを畳んで入れようとした。男が

 「いや、そのまま、こちらによこしなさい」

 と言った。

 「えっ。このまま?」

 だが、N3289567は何の抵抗も示すことができないまま、袋に白い布を重ねて、男に差し出した。

 男はそれまでの横柄な態度とは打って変わって、権威あるものからの授かり物のようにそれを両手で受け取った。受け取ると、袋の方は床に落としてしまい、愛おしそうに両手に乗せた白い布に顔を埋めた。

 匂いを嗅いでいる。・・・N3289567の網膜に男のその仕草は、不思議な生き物の生態のように映し出されていた。こうすることの何が男を駆り立てているのか。男は鼻腔をひくひくと痙攣させんばかりにあられもない姿で匂いを嗅いでいる。

 N3289567の体の奥に隠れていた固い芯のようなものに炎が点った。今まで感じたことのない種類の快感のうねりと優越感が愛海の体に走った。誰にも必要とされていないと感じて生きてきた自分という人間が、少なくともこの男をこのような行為に走らせる「価値」を持っている。

 ひとしきり匂いにむせび、遠い目をしていた男は、やっといったん落ち着くと、床から袋を拾い上げた。パンティを袋に入れ、ジップロックをしっかりと閉める。私の匂いを閉じ込めているのだと愛海は思った。

 男はカウチの脇に置いていたきらきらしたバッグの中から、今度はもっとずっと小ぶりの袋を取りだした。袋には直径一センチほどの金色に輝く玉が入っていた。

 「さあ、これを持って帰りなさい。誰にも盗まれない場所に隠しなさい」

 「これが、金のキューブ?」

 「そう、たとえ1電子通貨の価値が0になろうと豪華な自家用車一台分になろうと、この金のキューブだけは価値を変えない」

 「これをいくつ集めれば、私はあの施設から出て『世の人』になれるの?」

 「色々と複雑な問題がある。だが、確かなことは、君の体はこの金のキューブを無数に獲得するだけの価値があるということだ。・・・・そうだな。千も貯めれば、たぶん、街に部屋を借りて『世の人』としての生活を始める基礎資金になるだろう」

 「千キューブ?」

 気が遠くなるような思いで、そう独りごちながら、N3289567は小さな袋を目の前に掲げ、一三歳の自分が初めて得たその最初の一粒を見つめた。金のキューブの輝きは美しかった。が、あのサトリという名の蝶の羽の耀きとは何かが決定的に違う。

 (金は私を重力で捕らえ、サトリは私を風に放つ。)

 

6

 施設の裏山の小道を入っていくと、木々の梢が風にざわめいた。梢の葉の陰で小鳥が囀っている。ひとりで山に入っていくとき、N3289567は不思議に懐かしい思いに打たれる。

 目指す樹はこれといって変哲のない雑木でむしろその方が愛海には好都合なのだった。その木の根元には楕円形をした洞があった。N3289567はそこに手を差し入れると腐葉の中をしばらくまさぐり、彼女が隠した空き缶の取っ手をつかんだ。空き缶は洞の出口から引き出すのにぎりぎりの大きさだった。

 靴を脱いだN3289567はその底に細工した二重底から鍵を取り出す。地面に置いた空き缶の鍵穴にその鍵を差し込むと空き缶はぱかっと開いた。またひとしきり風が吹き、梢の影が地面に揺らめいた。N3289567は空を振り仰いだ。空の深い場所で雲がゆっくりと流れていた。

 降り注ぐ陽光に空き缶の中の金のキューブがぎらぎらと輝いた。

 金のキューブは小さなダイス(サイコロ)の形をしている。正六面体の六つの面には小さな穴が開いていてすべての穴は中央で交差している。

 日々、男たちの欲望と引き替えに得た金のキューブに細くて強い釣り糸を通し、N3289567は十個ずつ一列に縛りあげた。
 それはシステムの中でバー(棒)と呼ばれているひとつの「単位」であった。

 バーが十個並ぶと今度はN3289567はその四つの辺に糸を通した。こうして百のキューブは一枚の板になった。人々がボードと呼んでいる単位である。

 人間の欲望がそのようにして金という材質によって物質の形に造型されていく。

 彼らはこの金のキューブと引き替えにいったい何を求め、実際に何を得ているのか。N3289567には完全に想い浮かべることは不可能だった。

 ただN3289567は、彼らが求め、得ているものは、彼女があのサトリという蝶の羽を眺めているときに垣間見そうになる恍惚に、たとえどこか一部分にせよ、似ているのではないかと考えていた。

 彼らはそれを得るために、「世の人」としての財産を削って生きている。そしてN3289567にはそれを彼らに垣間見させる力がある。その恩恵と引き替えにN3289567の手元に彼らの欲望と恍惚が金という物質の形で蓄えられていく。

 初めは床に転がればすぐに見失いそうな小さなキューブだった。それがバーになり、バーが板になった。N3289567はその板の上にまた板を重ね積んでいった。板が積み重なるたび、それは新しい、もうひとつ次元を上昇したキューブに近づいた。

 (もうすぐ新しいキューブが完成する)

 大陸の東端の先の海に浮かぶ島国に育ったN3289567は大陸を覆う強大な「近代システム」の文明が数字を表記するときになぜ三桁ごとにカンマを打つのか長い間理解できなかった。この島国では数字は万に達するごとに次元を上昇する。一、十、百、千、万、十万、百万、千万、一億、十億、百億、千億、一兆。

 だが「近代システム」全体としての主流は、千を単位に次元を上昇させる。千に達すると今度はその千がいくつあるのかを数え始める。その数学体系=言語体系について、N3289567は百の板を積み上げ始めて五枚を越えたあたりで、忽然と悟るところがあった。

 「近代システム」は三次元の物質世界の目で、見える形を信じる。百の板が十枚重なると、そこに千のキューブから成り立つ新しい正六面体が生まれる。

 今日がその日だった。N3289567はポケットから小さな透明な袋を取り出すと、ジップロックを開け、中から小さなキューブをつまみ出した。九個のキューブにそれを加えて釣り糸で縛る。十本のバーを並べて四辺に釣り糸を通して縛る。十枚目の板が完成した。

 N3289567はそれを九枚の板の上に重ねた。どちらから見てもそれは「次元上昇したキューブ」として完全な形をしていた。視線を動かすと陽の光がその表面を動き、ぎらぎらと輝く。

 そこにもまた人間という生き物は、サトリの片鱗を見るのだ。この金という物質は、「近代システム」という、光の次元から物質の次元へと最も完膚なきまでに堕落した世界における、サトリのシンボルの最後のなれの果てなのだ。

 N3289567はその新しいキューブの十二の辺に釣り糸を通し縛り上げた。千のキューブ。N3289567の祈りは満願した。ここを脱出するときが来たのだ。N3289567はその愛くるしい容貌の故にいち早くひとつの階段を登りきったのだ。
 それはシステムの中でβキューブと呼ばれている単位であった。

 だが、中学の卒業までにはまだ一ヶ月の余裕があった。施設には中学卒業の日まで滞在することができる。

 その間にもN3289567は小さなキューブを稼ぎ続けようと考えていた。大きな街に出るための当座の資金は多ければ多いほどよかった。

 

7

 列車が速度を落とすと別の列車がすぐ横に並び併走しはじめた。龍と龍が競い合いながら翔んでいるようだった。

 やがて併走していた列車が離れて車窓の視界が広がると、何本もの車線の向こうに、見たこともない高さで摩天楼が乱立していた。摩天楼は天を突き刺し、時に薄い雲がその先をかすめて流れた。雲が流れ去ると先端は再び姿を現した。

 列車がさらに速度を落とし、駅構内の屋根の下に潜るとビル街は視界から消えた。巨大なドーム型の屋根の下にホームが並んでいて、列車はガタっとひと揺れするとそのうちのひとつのホームに寄り添いながら流れる。

 列車が完全に停止すると、N3289567は大きなバックパックに詰め込んだ荷物を背負い、出口に向かう人々の列に並んだ。メガロポリスに来るのは、生まれて初めてだった。たぶん。記憶に残る限りは。

 駅に降り立つと無数の電光掲示板が、あなたの行くべき道はこっちだと矢印を点滅させていた。それを見上げているだけで愛海は目眩を覚えた。自分はどちらへ行くべきなのか。ポケットから取り出したメモでそのホテル街の地名をもう一度確かめると、N3289567は取りあえず中央出口を指す矢印に従った。

 エレベーターの前には几帳面に二列に並んだ人の列ができていた。人々は正確なロボットのように動いている。きょろきょろと行き先や行く末を迷っているのは自分だけだとN3289567は思った。筒型をしたそのそのエレベーターは想像した以上に大きく、並んでいた人々は一度に全員その中に吸い込まれた。

 シュンという音でもするかのようにエレベーターは高速で上昇した。重力加速度軽減装置が内蔵されていなければ、生き物は上下に押しつぶされるのではないかと思えた。エレベータが連絡橋に着くと、人々ははき出され、それぞれ確信に満ちた足取りで行き先に向かって散らばっていく。誰もがこの「システム」の中にやるべきことがあり、その使命に向かって、直線的に高速で進んでいるように見えた。

 自動改札でパスをかざし、外の世界へ出ようとすると出口の両扉が閉まり、行く手は阻まれた。ランプに赤い光が点滅し、警報音が鳴った。数メートル先の案内所で係員が手招きしている。改札口から後ずさりしてそちらに近づいていく。手の型をした板に左手を置くように言われた。マイクロチップの情報が読み取られ、モニターにたくさんの文字が並んだ。

 係員は冷たい機械的な声で言った。

 「メガロポリスは初めてだね」

 「そうです」

 「入域許可証を作る。電子通貨は持っているのか?」

 N3289567はかぶりを振った。

 「通貨か。それとも、ゴールドしかないのか?」

 N3289567は頷いた。

 「それなら〇.五ゴールド払いなさい」

 「システム」は、人々のあらゆる行動に税を課し、徴収する。ここに来る列車代からも税はとられたというのに、この駅から都会に出るというだけで、また税が徴収されるのだ。

 N3289567にはそれらのすべてがこの星の上に生きるということの根源的な姿からの逸脱としか思えなかった。人々はいつかの時点で何かを見失い、それからこの醜悪なシステムを皆で作り上げてきたのだ。

 だが、そんなことは今ここで論じることではない。「今ここで論じても仕方ない」・・・人生はその連続である。墓場に入るまでそれは続くのだ。「遺体を焼いて墓場に埋めるのは間違っている」その最後の「論」も、「今ここで論じても仕方ない」として封じられ、人生は終わっていくのだろう。

 N3289567は財布の中から一ゴールドのキューブを取り出し、係員に手渡した。係員はそれに紫外線のような光をあて純度を確かめると、愛海に今この瞬間の相場で〇.五ゴールドの価値があるとされる通貨のナンバーをドライヤーのような形の器械を翳すことで、N3289567のマイクロチップに書き込んだ。

 パソコンが読み取ったマイクロチップの情報に基づいた「入域許可証」は、あっという間にプリンターから打ち出され、パウチされて愛海に手渡された。

 「ようこそ。メガロポリス、オーサカへ」

 係員はそう言うと「入域許可書」を愛海の手のひらに叩きつけ、無表情な笑みを浮かべた。

8

 見上げるとどこもかしこも目も眩むような高層ビルが林立していて、その上層階は遠近法で細く見えるほどである。何本もの摩天楼の間に覗く空に雲が流れている。空はなんと地上から遠いものになってしまったのだろうか。

 どこの街路を曲がってもそこに展開する景色はバーチャルなゲームの中の次の通りのようで、要は「同じ」にしか見えない。N3289567は瞬く間に道に迷ってしまった。自分があと三〇分のうちには辿り着くべきホテルの方向がわからない。

 また資金の無駄遣いになるけれどもタクシーに乗ろうか。タクシー乗り場はどこだろうか? 
 いやそれよりも、誰か道を教えてくれそうな人がいないだろうか。きょろきょろとあたりを見回す、中学を卒業したばかりの一五歳の少女N3289567。施設と学校の限られた往復空間のことで、世界について学んだことは余りにも少なく偏っていて、自分というものにしっかりとした核のようなものがないという不全感がある。自信がない。

 その自分と同じような若い少女がセーラー服を着て、道の角に立っているのがN3289567の目に止まった。愛海は信号が変わるとその少女の立っている街角に近づいていった。

 「あの、すみません」

 N3289567は声をかけた。すると少女は鋭い視線をこちらに投げた。

 「なんや、あんた、東言葉(あずまことば)か」

 「はい。東の果てから来ました」

 「はよ、ここの言葉に慣れんとな。田舎もんは、苦労すんで」

 少女はそういうと見下げるようにふっと笑った。

 「はい。あのう、道を教えていただいてもいいでしょうか」

 「どこ行くねん?」

 「ホテル・クリスタルです」

 「エンコーか」

 「えっ?」

 「援助交際かって聞いとんのや」

 「はい。そうです。私は今日、オーサカに着きました。これからここで生きていかなくてはならなくて」

 「この通りを抜けていったらええねん」

 少女は首をひねって自分が立っている角から見通せる歩行者天国のようになっている通りを示した。

 「途中でわからんようになったら、また人に聞き」

 「あ、はい。どうもありがとうございます」

 N3289567はバックパックを背負ったまま、指し示された一本通りを見つめた。道の両脇には、一定の間隔置きにセーラー服姿や、メイド服、ミニスカポリスや、巫女のコスチュームを着た少女が立っていて、道行く人々に手にしたチラシを配っている。

 道を歩いているのは、見たこともない髪の色や肌の色、目の色をした多様な人たちだった。

 遊園地のようにも、地獄の入り口のようにも見える不思議な通りである。

 N3289567はもう一度ぺこりと頭を下げると、その通りに踏み込んでいった。

 「あんた!」

 さっきの少女が背中から呼び止めた。

 N3289567はびくりとして立ち止まり、首だけ振り返った。

 「はい」

 「オーサカはあの灰色の奴らからお金をむしり取って生きるしかない街になってもた。そやけど、ええか。負けるんちゃうで。女の体は武器になるねん」

 「えっ。は、はい」

 「のし上がるねんで。応援してるで」

 少女はそう言うと軽くウインクして見せた。N3289567は彼女と話し始めてから初めてこの人は案外いい人かもしれないと考えた。そして、東から来ると乱暴に聞こえるこの「標準語」と呼ばれる「西の言葉」の中には、なにかしら温かいエネルギーがこもっているような感触がふわっと身を包むのを覚えた。

 「おおきに」

 本で読んだことのあるその言葉で礼を言うと、N3289567は街に足を踏み込んだ。

 通りを行く人々は、それぞれ様々な言語を話している。意味のわからない言葉の洪水に埋もれていると頭がくらくらしてくる。

9

 N3289567が歩いている道の両側に立っている様々なコスチュームで着飾った十代の女子たちは、ニホンの貧困な子どもたちだった。ニホンは世界でも有数の貧富の差の激しい国である。政府は国民からあらゆる機会をとらえて税をとるが、それを国民に還元したり、投資したりすることは殆どない。

 一%と言われる富裕層が国民の財産を「合法的」に吸い上げて「繁栄」する一方、大多数の貧困層は生きるためには何でもしなければならない状況に追い詰められていた。この少女たちは、自らが生きていくためにここで「女」を売っている。N3289567もまたその貧しい群衆の列の中に参入していくしかない境遇の少女のひとりだった。

 通りの中央を闊歩しているのは、外国からの観光客が多かった。彼らはニホンという国のアニメやオタクという文化に関心を持ち訪れた裕福な国の若者である。コミックスや動画でだけ見たことのあるようなコスチュームの女の子たちが実物として道の両側にずらりと並んでいるこの通りはアニメロードと呼ばれる有名な観光地のひとつだったのである。

 この通りに店を構える産業を業種別い見ると、本格的に性を売るものから、様々なイメージプレイ、射精を伴わないマッサージなどのサービス(リフレと呼ばれることもある)、メイドや古いニホンの巫女や芸者や湯屋をモチーフにしたコンセプトカフェやバー、「会いに行ける地下アイドル」が歌って踊る店まで、大変幅が広かった。
 たとえばカップルで訪れた外国人観光客はもちろん過激なサービスを売る店は避ける。男女一緒にニホンのアニメ文化やアイドル文化を楽しみ、女子も満足を得るといったメニューも、ここには用意されていた。

 ニホンの富裕層はこのアニメロードでは遊んでいなかった。彼らは地位も名誉も家庭も守らねばならぬ立場から、もうひとつ奥の闇に潜んでいた。N3289567はアニメロードに並ぶ、時給の低い奴隷のような労働に従事している少女たちの群に身を投じるつもりはなかった。父も母も、もはや助けてくれる親戚もいない愛海がこのメガロポリスで生きていくためには、もっと効率のいい方法が必要だった。「エンコー」である。それこそがニホンの富裕層の「性の収奪」の常套手段だった。

 通りを抜けると、ホテル街になっている。ここが、富裕層の中年男たちに、少女たちが性を鬻ぐ「エンコー」のメッカだった。N3289567は両側のホテルのひとつひとつの名称を確かめながら歩いた。が、ホテル街は一本通りではなく、迷路のように入り組んでいて、目指すホテル・クリスタルは、容易には発見できなかった。

 人々は自家用車で通りを過ぎてそのままホテル地下の駐車場に入っていく。N3289567は道を尋ねる相手を見つけることができなかった。

 と、高層ホテルの一階に周囲にそぐわぬ雰囲気の不思議な店舗を見つけた。生木が伐採された切り口に年輪が刻み込まれたままのの古めかしい木彫の看板には、大きな筆を用いて墨で書かれたように見える字で「宇宙本舗」と書かれている。その力の抜けたような文字の味わいにN3289567はふと心惹かれた。ふらふらとショーウィンドウに近づいていったが、その店が何を売る店なのかはにわかには判明しなかった。店内のガラスケースには様々な宝石が置かれているようにも見えた。また奥には書籍の並ぶコーナーがあるようにも見えた。

 レジがあるらしいカウンターにひとりの中年の女性が座っている。どことなく気のよさそうなその表情を見て、N3289567はここで道を聞いてみようと考え、入り口の前に立った。珍しく自動ドアではなかったため、いつまでも開かない。N3289567はやっと気がついて、ガラスドアについた取っ手を引いた。

 チリンと微かに来客を知らせるベルが鳴った。

 レジカウンターの女性は、丸みを帯びたレンズの年代物に見える眼鏡を少し下にずらしてN3289567を見た。

 まだあどけない顔をした、大きなバックパックを背負っている突然の闖入者を。

10

 「すみません」

 N3289567はレジカウンターの女性に声をかけた。じっとこちらを観察しているその女性を、N3289567は美しい女性だと思った。もっと若い頃ならさらに全面的に耀いていて男などいくらでも掌で転がせたかもしれない。しかし、「男を掌で転がす」といったような言葉が似合うような卑しい印象はなく、清楚でしかも温かいところのある印象を受けた。

 女性は黙って愛海が二の句を継ぐのを待っていた。

「ホテルクリスタルにはどう行きますか?」

「ああ」

 女性はゆっくりと頷いた。

 「もうひとつ向こうの通りを右へ曲がったら看板見えてくるわ」

 「ありがとうございます」

 N3289567はこの女性やこの「宇宙本舗」という店がいったい何の店なのかがとても気になった。だが、ホテルクリスタルでの「エンコー」の約束の時間は迫っていたのですぐに踵を返した。

 「おねえちゃん」

 女性がN3289567を呼び止めた。

 「はい」

 このままになるのは何か惜しい気がしていたN3289567はゆっくりと振り返った。

 「なんでホテルクリスタルに行くのん? もっと安いゲストハウスやのうて」

 「それは・・・」

 N3289567は言いよどんだ。ちょっとした沈黙の間合いがあった。ふと手元のガラスケースに目を落とすと、N3289567ははっと息を呑んだ。

 そこには美しい色を乱反射する様々な宝石に混じって、羽を広げた一匹の蝶が細い針で標本をして止められていた。それは死んでしまった標本に過ぎなかった。が、N3289567はその本物を初めて見たのだった。

 標本のすぐ手前には小さなネームプレートがあってアルファベットで「SATORI」と書かれていた。

 「おばさん! この蝶は?」

 「へえ。それ知ってるのん? サトリの標本は値打ちもんやで」

 サトリは図鑑で見たよりも少し色褪せて見えた。図鑑の写真あるいはCGは生きているサトリの神秘的な色合いをできるだけ再現しようとした一種のアートであった。けれども、今、目の前にあるソレは、無惨な死体であり、おそらく生きていた頃の煌めきの殆どすべてを失っていた。だが、沈み込み、くすんだような色とはいえ、その配色は紛れもなく、あの図鑑の図絵と同じサトリそのものだった。

 「なぜ、これがここにあるんですか?」

 「へええ。サトリに関心があるん? 近頃の若い子にしては珍しいなあ。そやけど、それは長い話になるで」

 「おばさん。私、後でここに戻ってきていいですか?」

 「それはええけど。今は急いでるんやね」

 「はい・・・」

 女性はもう一度眼鏡をずらして愛海を見ると、責める語感をわざと払拭したようなやさしい声色で言った。

 「エンコーやね」

 「え? あ、はい。まあ・・・」

 「ちょっとこっちおいで」

 女性に手招きされるがまま、N3289567はカウンターに近づいた。女性はコードセンサーを翳してN3289567のマイクロチップを読取った。

 「へえ。あんたが・・・」

 彼女は素っ頓狂と言っていいほどの驚きの声をあげた。それから怖いような目をして、N3289567の顔を正面から見つめるとこう言った。

 「あんた、これからオーサカで生き抜くには色々、作戦もいるで」

 そう言い出した女性をN3289567は見返した。

 「あとで作戦、練ろ。戻っといで」

 言いながら彼女はカウンターから廻ってきてN3289567に名刺を渡した。

 「宇宙本舗 今井麻衣」

 それが彼女の名前らしかった。名前があるということは「世の人」なのである。店舗の住所と電話番号も記されている。

 先ほど出会ったばかりなのにぐいぐい距離を縮めてくる。これが噂に聞いていた「オーサカ流」なのであろうか。

 「ありがとうございました」

 N3289567はぺこりとお辞儀をすると、通りに飛び出した。胸の中に、じわっと温かく広がるような感情があった。

 街の陽は少しずつ西に傾き始めていた。N3289567は黄昏はじめた空を一度だけさっと見上げると、前を見て、教えられた道を急いだ。

11

 36階建てのホテル・クリスタルをN3289567は仰ぎ見た。その屋上には四角形のくり抜きのデザインがある。

 人に聞いた話では、春分の日に朝日が昇るとき、この四角形の真ん中に真っ赤な太陽がはまり込む。それはまるで極東のこの国のヒノマルと呼ばれる国旗に似ているということだった。権力と経済力の象徴。

 今は西に沈もうとしている夕日に染められて、ビルの無数の窓がきらきらと耀いている。

 自動扉を開けてエントランスホールに入ると、そのもうひとつ奥のガラスドアにはボーイが控えていて、N3289567のために扉を開けた。みすぼらしいバックパッカーの出で立ちのN3289567にもボーイは差別をしない。

 しかし、その奥のフロント係は違っていた。眼鏡の奥から射るようにN3289567を見た。

「N3289567です。根本裕仁さんがお待ちの部屋へ行きたいのですが」

「マイクロチップを」

 N3289567は左手をフロントの冷たい大理石の上に置いた。

 係が読み取り機を翳す。

「照合したさかい、案内するわ」

 彼はそう言うと、奥にいたボーイに顎で合図した。

「はい」とすぐに意図を察したボーイが飛び出してきた。

「こっちへ」

ここの天井にも無数の蝶が、巨大な一匹の蝶を形づくったかのように羽を広げているシャンデリア。その真下を通るとエレベーターホールに出た。

 廊下の両側には10機ずつ計20機ほどのエレベーターが並んでいる。ボーイがボタンを押すとすぐにそのうちの1機の扉が開いた。

 ボーイの後ろについてN3289567が乗り込むと、彼は36と書いたボタンを押した。最上階の特別室?

 エレベーターはシュンと音をたてて上昇し、ほんの数秒で愛海を天空の城に運んだ。エレベーターから足を踏み出すと大きなガラス張りの壁からは、オーサカの街が一望のもとに見下ろせる。

 N3289567はそのビル群の広がりに息を呑んだ。これがメガロポリスか。このような建物の広がりを見下ろすのは、N3289567には初めての経験だった。

 ボーイは回廊を二度曲がった。扉の前に黒服の男が立っているのが見えた。ボーイが男に敬礼すると、黒服は頷いてドアの電子キーにカードを翳した。

 「では私はここで」

 ボーイはエレベーターの方角に踵を返した。N3289567は大きなリュックを背負ったまま、黒服に近づいた。黒服が少しほほえんだ気がした。

 ドアの前にまで来ると、黒服がゆっくりとドアを開けた。N3289567はそこに根本裕仁という男がひとりで待っているとばかり思っていた。防音仕様のために今まで聞こえなかったドアの隙間から奇妙なノイズの混じった読経のような音楽と、大勢の女たちの嬌声が漏れた。

 N3289567が覗くと、そこには十名はくだらない数の全裸の若い女たちがいた。その中央のソファに深々と腰掛けている男にしなだれかかるようにして、それぞれのやり方で媚びを売っている。

 男の手には大きなワイングラスのようなものがあり、透明な液体が半分ほど残っていた。男は

「お、来たんか。君が十年に一度の逸品という噂のN3289567やな」

 満足そうにニヤリと笑った。と、同時に十名の女たちが一斉にひんやりとした目でN3289567を見た。鋭いその眼光には嫉妬と呼び習わされているあの感情がこもっているようにN3289567は感じた。

 女たちは誰もが美しかった。整形をしたサイボーグのような顔。完璧なボディライン。男という種族を喜ばせるためだけに生まれてきた存在のようにも見えた。

 もしかしたら本当にアンドロイドかもしれない。

 N3289567にそう考えさせるほど、彼女たちの放つオーラは人工的だった。その彼女たちの存在に大音響で流れている電子音楽はほどよくマッチしている。ここは、人工的に作られた男のための楽園であった。

 男? そうは言っても大多数の男は、下界の街で奴隷のように働いている。ここは限られた、おそらくは人工の一パーセントにも満たない男たちのためだけに作られた快楽の園なのだった。

 「こっちおいで」

 裕仁が言った。N3289567がおずおずと足を踏み出すと、女たちの眼光がさらに鋭くなったように見えた。両の耳から侵入するだけではなく、床板を通しても響いてくる音楽がN3289567を痺れたような感覚にさせる。

 魔界の扉が今開こうとしているのだ。N3289567はなぜかそんな言葉を思い浮かべた。

12

 N3289567は裕仁の前で全裸になり、所在なく突っ立っていた。他の女たちのように体をやや斜めにし、足を前後に交叉させて腰に手をあてるといった「美の定型」を学んだことなどなかったから。

 それでも裕仁は満足そうに飽きずに愛海の体を眺めていた。頭の先からつま先まで、何度もねめ回すようにして、裕仁は視線を走らせた。
 「青い果実とはこのことや。たっぷりかわいがったるで」
 全裸の女のひとりが、水差しからガラスのコップに透明な液体をそそいだ。そして

 「さあ、あんたも飲み」と言って、N3289567に差し出すのだった。

 「お酒ですか?」

 N3289567がきょとんとした目をして尋ねると、女は一瞬驚いたような顔をして、それからやおら笑い出した。

 「ほんまに何も知らんの?」

 「私は今日、メガロポリスに着いたばかりなんです」

 女たちの間にざわめきが波のように走った。

 「これはなあ、気持ちよくなる薬や」

 「気持ちよくなる薬・・・麻薬のようなものですか?」

 「まあな。有頂天という名前の漢方や。まあ、飲んだらわかる」

さあ、と差し出されたそのコップをN3289567は受け取らざるを得なかった。

 「さあ。そんなけぐらい、一気飲みしいや」

 女が上から目線で言うと、N3289567の中には小さな反抗心のようなものが目覚めた。N3289567は「こんなもの!」というかのごとき態度でその透明な液体を一気に飲み干した。

 微かな苦みが舌に残ったが、まずいというほどではなかった。

 「N3289567。今日はおまえがここや」

 裕仁は自分の右隣に座っていた鍛え抜かれたダンサーのような美しい肢体をした女性を邪魔者扱いするように掌で追いやると、スペースを用意した。

 「ここへおいで」

 「はい」

 先ほどまでそこに座っていた女の大きなお尻の形の窪みがゆっくりと元に戻ろうとしている柔らかいソファのその場所へN3289567は腰掛けた。

 ふわっと自分の体が空中に浮かんだような感触に襲われた。ソファの柔らかさだけではなかった。先ほど飲み干したばかりの「有頂天」が、早くも身体に廻ってきているのだ。

 裕仁の厚い手が愛海の背中から肩へと廻ってきた。その手もまたマシュマロのように柔らかく感じられて、N3289567の肩に溶けて沈みそうになった。

 「若くてええ体や」

 言うと、裕仁はN3289567の両肩をとって自分の方を向かせた。

 その間も裕仁の左隣の女は自分の大きな乳房を、彼の背中に擦りつけて「ああ。ああ」と声を喚げている。他にも裕仁の足下から膝にかけて左右ひとりずつ全裸の女がまとわりつくようにして体を擦りつけている。

 よく見ると彼女たちはてらてらとよく光るオイルのようなものを全身に塗りつけているようであった。そうやって全身で裕仁の体を愛撫し続けているのだ。

 裕仁は彼女らにはそういった奉仕をさせ続けたまま向かい合ったN3289567の乳房を両手でつかんだ。広げられた指の間から、N3289567の乳房が零れ出る。裕仁が指にぎゅっと力をこめると、その手はN3289567の乳房に沈み込んでいくように見えた。「溶け合う」という表現がふさわしいだろうか。

 「おお、かわいい。かわいい」

 裕仁はそう言いながら、今度はN3289567の背中に手を廻し、ぎゅっと抱きしめた。ひとりの女がそんな二人の体の上に水差しからオイルを垂らしている。オイルは二人の体の隙間を滴っていったはずであった。

 だが、すでに体と体が溶け合っているように感じているN3289567にはそれが自分の体の内部を流れていくように感じられた。

 N3289567は学校で知り合った男子と何度か性の交わりを持ったことがあった。しかし、ゴールドのために大人の男性と交わりまで進むのは初めての経験だった。

 愛のないセックス。にもかかわらず、それはあまりにも特異な体験となった。
 裕仁がN3289567の体中を舐め回したあげく、屹立したものを挿入してくると、N3289567は自分が光の海に溺れているように感じた。

 行為の後、N3289567は自分が何時間も光の海をたゆたっているように感じていた。あるかなきかの海流がN3289567の体をゆっくりと運んでいるようでもあった。

 どこへ?

 ゆっくりと「有頂天」の効果が薄れてくると、N3289567はそれはどこへも繋がってはいないことに目覚め始めた。ただただ小さな輪を作っている流水プールの中をグルグルと経巡っているだけだ。 

 先ほどまであれほどまでに広大な光の海と感じられていたものが、おもちゃのようなプールの仕掛けであると知ったとき、N3289567は大きな落胆に見舞われた。

 「気ぃ、ついたんか」

 たくさんの女たちがだらしなく、ソファやベッドで全裸で横たわっている部屋の中、裕仁がソファの上で体をもたげて愛海に話しかけた。

 「有頂天というのはなあ、いつか、終わるもんや。初めからそう決まってんねん。まさしくそれを有頂天というんや」

 真面目な顔をして語る裕仁は少し悲しそうですらあった。

 「今日はおおきに。さあ、このゴールドを持って帰り」

 N3289567は大きく目を瞠いた。裕仁がN3289567に差し出したのは、ゴールドの粒ではなく、それが千個集まって構造化されたβキューブであったから。
 一回の情事でこのβキューブを? N3289567の育った田舎と、メガロポリスではあらゆる事象が桁違いなのだった。
  N3289567が中学生時代、何年もかけてパンティを売って作り上げたβキューブ。それが今日、たった数時間で得られたのだ。

 「おおきに」

 N3289567は覚えたての大阪弁でそう答えるとぺこりと頭を下げた。そして、ゴールドのキューブをバックパックに仕舞った。

 N3289567は、自分の衣服を探すとそそくさと身にまとい、駆けるようにして部屋を後にした。

13

 

 迷路のような高層ビル群の中、N3289567は元来た道を辿った。摩天楼の隙間の狭い空には殆ど星が煌めいていない。替わりにビル群の無数の窓に灯りがともっている。

 宇宙本舗の前にまで戻るとN3289567は愕然とした。木彫の看板に宇宙本舗と彫り込まれたこの店舗であることには間違いないのだが、そこには銀幕の「シャッター」が下りていたのだ。

 「後で戻る」と言ったのに。

 N3289567は辺りを見渡し、隣の敷地との境近くに、インターフォンを見つけた。

 急いで呼び出し音を鳴らす。反応がない。しばらくしてもう一度鳴らしてみる。やはり反応がない。諦めてバックパックを担ぎ直し、今夜の宿を探しに行こうと踵を返した。

 そのときやっと、N3289567の背中に向かって、インターフォンのマイクが今井麻衣の声を発した。

 「よう戻ってきたな」

 「はい。あの。もう少しお話したいことがあって」

 「今、シャッターを開けるさかい、店に入っといで」

 今井麻衣がどこかで操作ボタンを押したのであろう。シャッターは、シュンと音をたてて、一瞬にして幕を開ける。ガラス張りの店内は真っ暗だ。だがやがてそこに眩しいばかりの灯りがともった。

 店舗の奥からドアに向かって、麻衣が歩いてくる。麻衣が自らの指紋をドアに翳すとガラス戸が左に滑って開いた。

 N3289567は店舗に踏みいると何故か麻衣に抱きついてしまった。そうやって初めて、自分がいかに不自然な状況の中で圧倒的な恐怖に耐えていたのかが実感として湧いてきた。
 肩が小刻みに震えた。

 「怖かった」

 N3289567は呟いた。

 「よう、がんばったな」

 「私、私、ひとりだと思っていたの。しばらくの間、体を無感覚にしていれば、セックスなんてなんでもないと思ったの。そうやって生きていくしかないと思っていたし」

 そう述懐するN3289567の背を麻衣は軽く叩いた。

 「そしたら、一人じゃなくて、女の人がたくさんいて」

 「ほお。大富豪なんやな。よう見初められたもんや。なんという人やった?」

 「根本裕仁」

 N3289567がさっき彼女を蹂躙した名前を言うと、麻衣は瞳を大きくした。

 「なんちゅうことや。そいつは別名、北極星。システムの中でこの極東の人々を束ねとるやつや。束ねとるいうても、しょせん西の大国の傀儡にすぎひんけどな」

 「カイライ?」

 「ああ、操り人形っちゅうこっちゃ。で、北極星やったら、あれやろ、有頂天も飲まされたか」

 「うん。うん。なんだか、体がふわふわする飲み物を飲まされた。そしたら、なにがなんだかわからないほど気持ちよくなって・・・・。でも、ふと気がつくと箱庭の中で遊んでいた夢から覚めたようだった。・・・・とにかく、私、何もかもよくわからない」

 「それはそうやろ。殆どのもんは、なんで生まれて、なんで死ぬのかもようわからんまま、システムに飼い慣らされて搾り取られて死ぬだけや」

 「私もそうなるしかないんですよね」

 「それはどうやろか? まあ、こっち来て座りいな。今おいしい台湾茶でも淹れような」

 麻衣は再びドアに鍵をかけるとシャッターを閉めた。そしてN3289567を店舗の奥の応接室に誘ってくれた。

 その応接室の、N3289567の腰掛けたソファは裕仁の部屋のような不自然な浮遊感はなく、しっかりと包み込むように彼女の体をうけとめた。

 「この器を見てみ」

 麻衣は運んできた茶碗をテーブルに置く前にN3289567に手渡した。ずっしりとした重量感のあるその茶碗の底には木の葉が一枚焼き付けられていた。

 「その木の葉はなあ。あんたが興味もってるあのサトリという蝶が好んで卵を産み付ける葉や。この茶碗はそれを器の底に焼き付けてある。匠の技や。普通は木の葉は焼けて縮れて形を失う」

 N3289567は茶器の底のそのどこにでもありそうな木の葉を見つめた。
 「確かに、これが焼き物なら、木の葉を焼いてしまわないってすごく難しい技術のようですね」

 「さあ、ここからがマジックショーや。器をテーブルに置いて」

 N3289567は言われたとおり、テーブルの上に茶器を置いてまだ覗きこむように木の葉を見つめていた。

 「そこにこの台湾茶を注ぐと・・・・」

 言いながら、麻衣は先ほどから白い急須で煮出されるのを待っていた茶を器に注ぎ込んだ。綺麗な黄金色のお茶だった。

 「見てみ」

 麻衣に促されて、愛海がもう一度その茶器をのぞき込むと、さっきまで底に焼き付けられたように見えていた木の葉の先が、ふわりとめくれ上がり、茶の中に浮かんで見えた。

 「うわ、不思議」

 N3289567は無邪気な声をあげた。

 「不思議という言葉はなあ。正しくは不可思議っていうねんで。人間の頭では説明がつかない、考えることもできないことを不可思議っていうんや。そやけど、ほんまはこの世界はなあ、殆どすべてが不可思議や。それを全部システムの中に閉じ込めてしまおと思ったとき、人間は間違った道を歩みはじめたんや」

 麻衣もまたそんなことを幼い少女に説きながら、めくれ上がる木の葉の先をうっとりと眺めているのだった。

14

 台湾茶を飲むと随分心が落ち着いてきた。N3289567は一番気になっていたことを尋ねる心の準備が整った。

 「おばさん。さっきのあの蝶の標本」

 「サトリのこと言うてんのん?」

 「昔、あの蝶の写真を図鑑の中で見つけたとき、私は心が痺れてしまうぐらい惹き付けられたんです」

 「もういっぺん見てみる?」

 今井麻衣は、愛海をそのガラスケースの前に誘った。

 部屋の灯りの他にガラスケースの中にも灯りがあり、サトリの羽は煌々と照らし出されていた。

 「きれい・・・。でも、図鑑の中ではもっと耀いていた。あれは過度に彩色してあったのかしら?」

 「いや、そんなことあらへんで。本物のサトリはそりゃあもう、腰抜かすほど綺麗なもんやっていうで。生きて飛んでるやつはな」

 「おばさんは、見たことあるんですか?」

 「しっ!」

 と今井麻衣は人差し指を唇にあてた。そして、N3289567の耳元で小声で「黙ってついておいで」と囁いた。

 麻衣はゆっくりと腰を上げると宇宙本舗の奥へ向かって歩き始めた。N3289567は黙ってその背中に付いていく。

 店の奥には狭い廊下があって、そのどんづまりには小物を並べる棚があった。がその棚には仕掛けがあって、麻衣は掛けがねを外して棚の一方の端を落とすと、回転ドアとなって奥への通路が開いた。

 通路のすぐ先に階段があった。麻衣は入念に回転ドアを元の位置に戻した。

 「地下へ行くよ」

 麻衣は壁に掛けてあったランタンを手にとった。手にとると自動的にふっと灯りがともる。照らし出された階段を一緒に下りていく。

 随分深く地下に潜ったように思えた。

 辿り着いたのは巨大な地下室だった。

 「特殊な金属で守られているこの地下室には、GPSも届かへんねん。ここは解放区や」

 広大でしかも床から低い天井の高さまではすべて本棚で覆い尽くされている。

 その本棚は何重にも並んでまるで迷路のようになっている。

 「ここにはようさん経典が隠してある」

 「経典?」

 「そうや」

 今井麻衣は両の掌をそれらの書物に差し伸べるような動作をして言った。

 「経典には近代システムが覆い隠していることがようさん書かれてるんや。学校では習わないことがな」

 「学校で習わないこと? おばさん。サトリはやっぱり生き残ってるんですか? おばさんは見たことあるんですか?」 

 今井麻衣はN3289567の瞳をじっとのぞき込み、それからおもむろに口を開いた。

 「ああ、昔はな」

 「で、でも、百年前には絶滅したって言われてますよね」

 N3289567は慌ててそう言う。

 「ああ、システムではそう言われてるけどな。私は見たことあるし、今でも生き残っていると信じてる」

 「えっ。まだ生き残ってる可能性あるんですか」

 「十分あるなあ。もうひとつの大陸にはな」

 「もうひとつの大陸?」

 「近代システムはこの星の裏側にあるもうひとつの大陸のことを隠している。ずーっと海が星を覆っていて、一周したらこのユーラシア大陸があるだけやとそう教えるさかいになあ」

 オーサカに来てからというもの、N3289567の幼い頭にインプットされていく新しい情報の洪水は、自分が情報の大海に浮かぶ小舟のように感じさせた。

 「この星の半分以上を支配している『システム』はな。自分たちに都合の悪い情報は全部初めからなかったことにしてまう。システムこそがすべてでその外では誰も生き残られへんと思いこませるんや。そやけど、ほんまのこと言うたら、システムの方こそ、無限の世界の一部を縄で囲って、これが世界や、これが世界やって言うてるだけなんや」

 「そやけど、システムがなんぼ物事を覆い隠そうとしてもな。本当のことを知ってるもんは、密かにそれを経典に書いて、本気でアクセスしたいもんがアクセスできるように遺してる。それがここに集めてあるんや」

   

15

 図書館の奥にはスライド式の書棚があり、さらにその奥へと麻衣は、N3289567を案内していった。

 そこは特に個人的な資料を保管してある「奥の院」ともいうべき書庫だった。

 麻衣は赤い表紙の一冊の本を書棚から引き出した。

 麻衣がそれを開くとそれは実際には本ではなく、写真アルバムだった。印画紙に印画された写真が透明なフィルムに覆われて並んでいる。

 「これが若い頃の私や」

 「えっ」

 麻衣が指さした若い女性は確かに今ここにいる今井にそっくりだった。当然のことだが、骨格が変わっていない。

 「パソコンの中に保管するよりな、こうやって紙にして隠すほうがまだ安全なんや。パソコンはいつ侵入されるか、わからんからな」

 そしてその写真には後二人の男女が撮っていた。仲むつまじく並んでいる。

 N3289567は麻衣と一緒に並んで写真に撮っている男女に視線をそそいだ。

 「愛海ちゃん」

 今井麻衣がふいに写真から顔を上げるとN3289567に向かって意外な名前で呼んだ。

 「えっ?」

 「愛海ちゃん。大きなったな。N3289567という番号の非国民になる前、あんたは遙愛海という名前の『世の人』やったんや」

 「・・・・・・」あまりの衝撃にN3289567は口をぱくぱくさせて二の句が

継げなかった。

 「そやからこの地下室ではあんたを愛海ちゃんと呼ばせてもらうで」

 「ハルカアミ。それが私が『世の人』やった時の名前なんですね」

 「そうや。遙か彼方の遙に、愛の海と書く。両親の願いのこもった名前や」

 愛海はその字を頭に想い浮かべた。

 どこか遠くから自分を「愛海」と呼ぶ父や母の声が聞こえたような気がした。

 ほどなくその名は、先ほどまでN3289567に過ぎなかった愛海の心と体にしっくりと染みこんでなじんでいくのだった。

 さらに今井麻衣は再び写真に目を落とすと言うのだった。

 「そしてここに撮ってるふたりがなあ、あんたのお父さんとお母さんや」

 「ええええっ!」

 N3289567、いや遙愛海は、全身をわなわなと震わせた。

 優しそうな顔立ちの細身の男と、南方系の先住民を想わせるような精悍で濃い肌の色をした女。

 「これが私のお父さんとお母さん?」

 そう告げられると、愛海は不思議な懐かしさが胸の中にじわっと湧いてくるのを覚えた。

 「さっき昼間にあんたが店に来たときにマイクロチップを調べさせてもろたやろ。それで私にはあんたが昔の仲間の娘の愛海やとわかったんや」

 「マイクロチップで。その痕跡はマイクロチップに記録されてるんですか」

 「いや、抹消されてる」

 愛海は頭が混乱してきた。

 「それならどうして? どうして私がこの両親の子どもで遙愛海だとわかったんですか?」

 「これは私にしかわからへんねん。チップの中にある意味のないバグの痕跡や。どういうたらええんやろ。昔の人はどこに黒子があるか。それだけで何年ぶりもの相手を見分けた。そんな黒子みたいなものがな。私だけが知っている黒子みたいなものがチップの中にあるんや」

 「黒子・・・ですか・・・・」

 愛海は遠い目をして、運命の不思議に思いを馳せた。

 アルバムをめくると今井麻衣とN3289567の両親の三人で撮影された写真は何枚も並んでいた。三人は相当親密な友人であったようだ。

 それにしても写真はすべてメガロポリスのような都会で撮影されたものではない。鬱蒼と茂った森林の中や、茶色く濁った河のほとりである。

 「ここはいったいどこなんですか」

 「これがさっき言うたもうひとつの大陸や。そこにはアマゾンというこの星で一番広大な流域を持つ大河が流れてるんや。この茶色い河がそのアマゾンや」

 「昔、私の両親とおばさんは、ここに行ったんですか?」

 「ああ、べージンリアを渡ってな」

 「ベージンリア?」

 「もうひとつの大陸とユーラシア大陸を結ぶ架け橋のような長細い陸地や」

 「で、で、お父さんとお母さんは今どこに」

 ふいに弾けたように愛海は息せききってその疑問を口にした。

 「私は幼い頃からお父さんとお母さんは行方不明と親戚から聞かされて育ちました。でもおばさんは何か手がかりを知っているんですか」

 「私はあのふたりは生きていると信じてる。ただ・・・・・」

 「ただ?」

 「システムによって既に抹殺されている可能性は否定できひん」

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