性と文化の革命(ジェンダーの視点から 7)

(お題は家庭教育) 
 ヴィルヘルム・ライヒは『性と文化の革命』(以下引用はすべて同書)で、「根本的な社会的問題」は「あたらしく生まれたものや子どもや青少年や女や男の自由で健康な生命の発揮を、どんな社会の欺瞞をも永久に排除する断固としたやり方で、完全に肯定して、たすけて、まもるか――さもなければ、イデオロギーや口実がなんだろうと、生命の自由な発揮を抑圧し、だめにしてしまうか、という問題だ」と喝破した。

 ありとあらゆる欺瞞に満ちた学校で、「教育という名の強制」を行なうことを日々のなりわいとしている僕としては、胸の痛む言葉だ。

 だが、家庭教育は、子どもの基本的な性格をつくるにあたって、学校教育の比ではないほど重要かつ決定的な役割を担っている。権力社会を支える基礎中の基礎は、学校以上にむしろ「権威主義的な家庭」だ。学校は飽くまでも、集団的矯正による仕上げのシステムといったところだろう。

 具体的にはライヒは、「権威主義的な家庭」における幼児期と青年期における性抑圧こそが、すべての生命抑圧の根源であると考えていた。そうやって養成された権威主義的な人間が、権力社会をつくり、再生産しつづけるというのである。

 つまり、いじめ、自傷、虐待、DV、殺人、戦争、ありとあらゆる憎しみの連鎖は、そもそも自らの生命や性に反対する態度を養う家庭教育(および学校教育)に起因するということになる。

 「権威主義の社会は、青少年の性を抑圧することに最大の関心をもっている。権威主義の結婚や家庭と、隷従するための心の構造を、いつまでもつづかせるには、この抑圧が必要だ」

 つまりライヒの考えでは、「性をはじめとする無条件の生命肯定を妨げた上で、保守主義のイデオロギーに従う場合だけ、報いとしての幸福が得られるとする方向づけ」が、問題なのだ。そのようにして心の隷従構造が生まれる。そして、隷従は本音では屈辱のはずなのだから、結果として、心の根っこに強制に対する憤りをもった、苦しげで「いけず」な人格がつくりだされるというわけだ。

 目標に向かって頑張ることで今ここでの幸福(オーガズム)を感じることを無限に延期する生き方。そのように生きる者は、いかんともしがたい自らの憤りを、「権力をふるう」「いじめに走る」「自傷する」などの行為で発散することになりがちだ。あるいは突然そのすべてを諦めて完全な無気力に陥るか・・・。

 「なによりもまず、女性と子どもが経済的に奴隷のような立場にあるのをやめることなのだ。それから、女や子どもが権威によって奴隷のような立場におかれていることも。そういうことがなされないかぎり、夫は妻を愛さないし、妻は夫を愛さない。そして親子たがいに愛しあうことはないだろう。われわれがぶちこわしたいのは、家庭ではなくて、家庭が生み出した憎しみ、つまり、そと目には愛をよそおっているかもしれない強制なのだ。」

 ちなみに、こんなことばっかり言っていたライヒは後に、自由の国(?)アメリカにおいて不当にも獄死したので、念のため。

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