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親鸞は解脱パラダイムか

『魂の螺旋ダンス』は直線史観も、循環史観も批判するために書きました。
その読書会第3回は、部族シャーマニズムの立場から国家宗教を撃つことにfocusしました。
その上で後半、ゲストのEiboさんから、「超越性宗教の章にあまり興味がない。循環史観でよいのではないか」という問題提起がありました。

そこには「仏教は星川淳が1990年代から批判してきた『解脱パラダイム』なのではないか」、「結局ケン・ウイルバーと同じように直線史観の罠に落ちているのではないか」という問いも含んでいました。

改めて続きを論じます。

超越性宗教、ことに仏教は解脱パラダイムかどうか。
そこに説かれる、永遠の今ここ、空、尽十方無碍光は、
いかなる変性意識でもない「解脱」です。

しかし、そこから遊煩悩林現神通する。

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上は親鸞の正信偈から、天親を讃える部分の一部です。
下の右の拙著から、訳をとってます。

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非二元的な覚醒から、遊煩悩林するので、「解脱」したからといって、仏教について、少なくとも天親、曇鸞、そこから一字ずつ名前をとった親鸞について「解脱パラダイムである」という批判は当たらないわけです。

『往生論』より天親の原文。出第五門です。

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曇鸞も同じことを『往生論註』で解説しています。
最後の三行、還相とは、からです。

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ゆえに『魂の螺旋ダンス』は、シャーマニズムが国家宗教を批判して、元に循環することでは終わりません。

最も低い所に追い詰められたものにも、無条件で開かれている究極の解放とは何か。それが超越性宗教が開示した存在論です。(キリスト教も同じ)

このことは、『魂の螺旋ダンス改訂増補版』の臨死体験の章のあとに加筆するのがふさわしいか、検討中。


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