「倶舎論」をめぐって

CXIX
他にも、今井氏は、面白い説を展開する。大分、以前、『倶舎論』の思想的特徴を、私は「分析至上主義」として、提示した。すべてのものを究極にまで分析し、分析可能な存在を「暫定的存在(仮有)」とするのは、仏教の定番であって、世親もこの思考法を重んじた。もっとも、彼の場合、「分析至上主義」の行き着く果ては、どうやら、唯識らしいので、説一切有部にとっては、この「分析至上主義」は、獅子身中の虫の如きもので、いつしか、自説の崩壊を招く論理だと思われる節がある。このような考え方は、何も私の独創でも何でもない。以下の、今井氏の解説を聞けばよくわかる。
 仏教に在って無我と云ふ事を理論的に証明するに二種あり、一を析空(シャク・クウ)と云ひ一を体空と云ふ。析空とは万有の組織を部析(ボウシャク)して抱合より成れる仮立の物体仮成の現象の実在ならざる事を証明するもので、有部宗より進んで成実宗に至るまで皆此析空観を用ふるのであるが、大乗教に在りては之と異なり仮成仮立の現象界の事々物々を以て直に空なりと観ずる之を体空観と云ふので、今倶舎論は何れかと云へば小乗教の立場にあるが故に有部宗と同じく析空観を用いて万有の組織を分析的に攻究して竟〔ツイ〕に諸法の空無なることを観達するのである。去れば其世界観の如きに至ても之を哲学的と云はんとするよりは寧ろ物理学的に近しと云ふべきが適切と思ふのである。斯く万有の説明に関する方法に倶舎と有部と同じく共に析空観に依り其世界観は等しく共に物理学的であるも亦其間に多少の不同の点なきにあらず、例えばその差異の要点を一言すれば、有部宗は万有を区分して物と心と非物非心の三種となして、事物の実在を説き極端なる多元論を主張したるも、之に反して経部は事物の実在を否定し有部に所謂実在とする、物質及び心象其他非物非心の不相応行並びに三無為を仮在的に叙述して以て有部の極端なる多元的実在論を排斥したのである。倶舎論は已に述べたるが如く此の経部の説に左担するを以て唯万有を物心の二種となし非物非心の実在を許さぬ、而して此差異点は延いて直に倶舎宗の涅槃に関する意見の相違を来すに至るもので、所謂無為法は非物非心のものなるが故に之が実在を認容するとせざるとに依りて、其根本的の区別を画するに至るものである。(今井奘輔「倶舎論綱要」『曹洞宗講義 第二巻』昭和3年初版、昭和50年再版、所収、pp.27-28,〔 〕内私の補足)
ここにある「析空観」が、私のいう「分析至上主義」に相当する。ただ、「分析至上主義」は、最終的に唯識にまで至る、と私は、考えている。その点、今井氏のいう「体空観」が唯識・中観両方をいうのか、判然としないので、確たることはいえない。それにしても、「体空観」は、理論を欠如したお悟りの世界のように見えて、甚だ、いただけない。
 

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