仏教余話

その118
仏教とインド思想との深い関わりを示唆する宮元啓一博士のいうところを聞いてみよう。博士はこう述べる。
 〈インド思想中、最も名高い学者である〉シャンカラによれば、この世界は世俗よりすれば真ですが、勝義〈=究極的な真実〉よりすれば誤りだということになります。世界は幻影、虚妄ですから、そして輪廻というのはこの世界の中の出来事ですから、無数の個別的自己が輪廻するというのも幻影、虚妄です。勝義よりすれば、輪廻などないのです。ですから、勝義よりすれば、輪廻からの解脱もありません。あえていうとすれば、私たちは、永遠の昔からすでに解脱しているのだ、ということになります。ですから、〈シャンカラの説く〉不二一元論では、勝義よりして、解脱のために祭祀を執行したり、いわゆる修行をしたりする必要はまったくありません。修行不要論なのです。(そもそも、修行という行為〔カルマン、業〕は、輪廻の原動力にしかならないとされます。)必要なのは、自分がすでに永遠の昔から解脱しているのだということに「気づく」ことだけです。この「気づき」に必要なのは、聖典と師の教えに完璧に得心がいくことです。こうした考えは、実は、シャンカラよりも以前の中期大乗仏教(西暦紀元後四~六世紀)にも見られます。『大般涅槃経』は、すべての生類は仏性(ブッダター、仏となる本性的な素質)を具えていると説きます。これがさらに進み、如来蔵系の経典では、すべての生類は如来蔵(tathagatagarbha仏の胎児)であり、うまくみずからを育てれば、間違いなく仏へと成長すると説きます。その後、引き続いて、『大乗起信論』の本覚思想が登場します。これによりますと、わたくしたちは、永遠の昔から仏であり続けて今に至っているのであるが、自分にとって外的なものでしかない煩悩(客塵煩悩)によって心という鏡が曇らされている、その曇りを払って自分の真の姿に気づくこと、これを始覚といい、これが世間でいう解脱に相当するといいます。そして、気づくために必要なのは、大乗仏教に篤く信を起すことであるといいます。どうでしょうか。よく似ていますね。時代からして、不二一元論は本覚思想よりも成立が後です。シャンカラが『大乗起信論』などを読んで本覚思想を知っていたかどうかは不明です。しかし、たとえシャンカラが大乗仏教の本覚思想を知らなかったとしても、それ以前の大乗仏教からシャンカラは多くのものを借用していますから、その延長線上に、偶然にではなく、いわば必然的に『大乗起信論』と同じ考えにたどり着いたと考えることも可能でしょう。(宮元啓一『インドの「一元論哲学」を読むーシャンカラ『ウパデーシャサーハスリー』散文篇』2008,pp.35-37,〈 〉内私の補足)
様々な妄想が沸くような、刺激的な論述である。仏教オリジナルと看做されてがちな考え方も、実は、インド思想から胚胎してきているものなのだ、という認識を持ってもらえば、今は、十分である。


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