新インド仏教史ー自己流ー

シャカ 以降の仏教―経量部、インド仏教の花形―
その1
 経量部は、現学界では、どのようにとらえられているのか?まず、そこから見ていきましょう。経量部をメインに論じる会をリードしたクリツァー(R.Krizer)博士は、基調論文の冒頭で、こう述べています。
  経量部という術語は、ほとんどすべてのインド仏教概説研究に登場するけれど、実際、誰が経量部なのか 彼らの主張した立場は、正確には何なのか、についての信憑性(しんぴょうせい)のある情報は、ほとんどない。(The Sautrantikas,The Jounal of the International Association of Buddhist Studies,26/2,2003,General Introduction,p.201)
また、御牧(みまき)克己(かつみ)氏は、同部派を扱う論文の冒頭を、以下のように始めています。
 インド思想史に登場した仏教諸学派の内で、経量部(きょうりょうぶ)ほど興味深くまた謎に包まれた学派は少ないであろう。説(せつ)一切(いっさい)有部(うぶ)から派生したと言われるかと思えば、ある時代には説一切有部と並べて比較される程大きな学派に発展しているし、また、小乗十八部派(または二十部派)の一つであると説明されるかと思えば、ずっと後代の論書の中では大乗の学派と考えられていたりする。徹底的に突き詰めた実在論やドグマに執着しない柔軟な態度や認識論に於けるラディカルな表象主義などの屈折した議論には、我々をこの上なくこの学派の思想に引き付けるものがある。(御牧克己「経量部」『岩波講座・東洋思想 第八巻 インド仏教I』1988年、p.226)
さらに、梶山雄一氏は、その研究の困難さを、こう述べている。
 経量部の教義を体系的に記述している独立した論書は我我に伝えられていない。説一切有部や唯識派の諸論書の中に、引用、批判されている経量部の学説、『俱舎論』において、説一切有部の正統的理論の主要なものに対して、経量部の立場から与えられた世親の批判、その他の断片的な資料を通して、その理論一般が推定されるだけである。(梶山雄一『仏教における存在と知識』1983年、p.31)
また、櫻部健氏は、以下のように、疑念を綴(つづ)っている。
 部派分裂史上經量部のもつ位置については、分裂の末期に上座部系の説一切有部より分裂した、といふことに、諸資料の概ね(おおむね)一致し、重大な矛盾は存しない。元來、經部Sau の名義釋(しゃく)にづいては、「經を量〔判断基準〕とし、論を量とせざるが經部なりYe sutra-pramanika na sastra-pramanikah te  Sautrantikah」とされるのが通規である。分派傳説(でんせつ)に從へば、經部は有部の中から、特に「經を量とし論を量となさざる」部當(ぶとう)が分立したとされるのであるけども、倶舎論その他の有部論書中に見出される經量部の所説は果してその様な性格をもつたものであろうか。すくなくとも、われわれは敎學説(きょうがくせつ)が具體(ぐたい)的(てき)に示されている限りについていふならば、經部が有部毘婆沙師以上に特に論をしりぞけて經を量としたとも、又毘婆沙師が經部以上に特に經をしりぞけて論を量としたとも考え得ない。それはたゞ、有部が〔カーツヤーヤナ作〕發(ほつ)智(ち)本論に佛説(ぶつせつ)と同様の權(けん)威(い)をおく點(てん)で「論を量とする」ものであつたのに對(たい)して、經部はその論をその様に權威としないのであるから、その限りにおいて「論を量としない」と云ひ得るのみである。蓋(けだ)し、この部派がSautraおしとするntika,Sutravadinの名を負う以上、そこに「經為量的」な性格を考えざるを得ないが、敎學説が具體的に示された限りの經量部は、決してその様な性格を顕著に示してゐるものではなく、むしろその立場こそ違へ、有部と同じく著しい〔分析・分類をよしとする〕阿毘達磨的な性格においてあると考えられる。(櫻部健「經量部の形態」『印度学仏教学研究』2-1,1953年、ルビ・〔 〕内は私の補足)
そして、加藤純章氏の『経量部の研究』が出版され、研究史に残るものとなりました。しかし、全面的な解明には、至っていません。

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