仏教論理学序説

その16
賢明な方なら、吉水氏の訳と拙訳を比べ、その違いにすぐ気が付くであろう。bhavaを筆者は、「集合体」と訳し、吉水氏は「存在するもの」とする。吉水氏の訳語が、常識的であることは明白である。また、吉水氏が副詞的に「本来のあり方として」と訳したsvabhavena(rang bzhin gyis)を筆者は「素材によって」と訳した。また、吉水氏が原語を表示するに止めた第2のsvabhava(rang ngo bo)を「独自性」とした。すべて、吉水氏の訳し方が、常識的である。なのに、なぜ、特殊な訳し方をしたのか?その第1の理由は、筆者は、この偈の背景にも、「二諦」や「部分と全体」等の議論が潜んでいると感じたからである。第2の理由は、筆者が長年追っているチベット語訳によるsvabhava解釈が、ダルマキールティ理解にも有効ではないかと思ったからである。そのチベット語訳による解釈を試してみたくなったのにも、情けない話だが言い訳がある。実は、従来の解釈が、筆者にはあまりにも、難解すぎたからなのである。吉水氏はこの偈を考察する問題点をこう
披瀝している。
 ただ解釈上厄介な問題は次の点である。この前後の議論が論理学的文脈と存在論的文脈、あるいは概念レヴェルと実在レヴェルを往復するものならば、bhava,svabhavaという語をどのように解釈するのか。(吉水千鶴子「Pramanavarttika I 40の解釈について」『印度学仏教学研究』47-2,平成11年)
この論理学的文脈や存在論的文脈、概念レヴェルと実在レヴェルがはなはだ、筆者にはわかりにくいのである。勿論、これが、ダルマキールティの世界的権威シュタインケルナー(E.Steinkellner)氏の提言であること位は承知している。(E.Steinkellner,Wirklichkeit und Begriff bei DharmakirtiWiner Zeitchrift fur Kunde Sudasiens(WZKS)15,1971,-do-On the Interpretation of Svabhavahetu,WZKS.18,1974参照。)
この提言は、日本の代表的ダルマキールティ学者桂紹隆氏にも受け入れられた。桂氏はこう述べている。
 かつてシュタインケルナー教授は、svabhavaの解釈として、存在論的な文脈では「因果効力」、論理学的な文脈では「概念」と厳密に訳しわけることを提案したことがある。(桂紹隆「ダルマキールティ論理学における術語svabhavaについて」『仏教とジャイナ教』2005.p.526)
斯界の権威の提言が、筆者にはピンこないのである。勉強不足といえば、それまでだが、はたして、その区分は有効なのだろうか?そう強く思うようになったのは、20世紀初頭の著名な学者シチェルバツキ(Th,Stcherbatsky)の次の言葉に触れてからである。
 説一切有部とその反対者との争いは、我々の実在論と観念論という概念にはほとんど無関係な問題について、全く異なる面で行われたのではないか。(Th.Stcherbatsky,The Central Conception of Buddhism and the Meaning of theWord”Dharma” 1923,p.4,ll.26-29金岡秀友氏の訳本『小乗仏教概論』、昭和38年、p.12参照。また、櫻部建氏は、同じ文言を引用し、「よく注意して、この“実在”ということばを用いなければならないと思う」(櫻部健『仏教の思想 2 存在の分析〈アビダルマ〉』昭和44年、p.46)と述べて、注意を喚起している。なお、同じような問題意識が、前掲注20)のシャストリ本でも論じられている。シャストリ氏は、idealismとrealismに完全に一致するサンスクリット語はない、と述べ、強いてあげれば、vijnana-vadaとbahyartha-vadaであるとしている(p.46)。また、「sarvasti-vada(説一切有部)という語は、仏教サイドにおいてすら、普通の意味ではrealismを意味しない」(p.46,ll31-33)などとも述べている。シャストリ氏の提言はpp.46-48で確認出来る。重要と思われるが、ここでは、簡単な紹介だけしておきたい)
ここにあるのは、現代人による恣意的な理解が、本当に正しいのか?という切実な疑問である。我々は、アプローチの仕方からして間違っているのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?