仏教豆知識

(これから仏教について私が面白いと思ったものを
いくつか紹介していきます)
景(けい)教(きょう)
その1
前に、性相学(しょうぞうがく)について考察しました。その分野では、名を馳(は)せた学者に舟橋(ふなばし)水(すい)哉(さい)という人がいます。まずは、その人のエッセイを読んでもらって、話の導入としましょう。
四月二十一日快晴。此日、性相(しょうぞう)学科生(がっかせい)数名を引(いん)具(ぐ)して、見学のため御室(おむろ)付近の、倶舎に関係ある二三の寺院を探るべく試みた。…先ず太(うず)秦(まさ)の広隆寺(こうりゅうじ)を訪問した。こゝへは十二三年前一度参詣(さんけい)したことがあるが、昔ながらの奥ゆかしい寺であって、どことなくよいところがある。…広隆寺を辞して、道を北方に取り、妙光寺(みょうこうじ)を訪ねることにした。…妙光寺は禅宗十刹(ぜんしゅうじゅうさつ)の一で、…開基(かいき)法灯(ほうとう)国師(こくし)の木像を初めとして、寺宝(じほう)を拝観し、且(か)つ古版(こはん)の経論(きょうろん)等を見せて貰ひ、こゝに昼飯を済まし、かくて湛(たん)慧(ね)の墓に詣でることゝした。西寿寺(さいじゅじ)と広隆寺との中間、道路の東方、双丘の西方に当って一面の藪(やぶ)がある、此が即ち長寺院(ちょうじいん)の跡(あと)である。長寺院に就(つ)いては、日本(にほん)名勝(めいしょう)地誌(ちし)や地名辞書、又は古い地誌にも記してないので、此を探るには余程苦心した。南方一面が寺跡らしい、北方の少し小高い処に墓所がある。而(しか)して普通の墓所の西方に僧侶の五六の墓がある。其中の一が即ち湛(たん)慧(ね)律師(りつし)の墓であった。此を探るに就いて、今津君が同行して呉れたので、大に利益を得たことである。尤も此墓所も藪の中であってこゝまで行くには甚(はなは)だ困難であった。湛慧は指要鈔(しようしょう)の著者で、普(ふ)寂(じゃく)の師匠である。指要鈔には普通奥書(おくがき)はないが、或る一本に、
   洛陽西郭、御室長時院、湛慧律師、所抄記也。〔らくよう・さいかく、おむろ・ちょうじいん、たんね・りっし、しょうをきすところなり〕
 とあるので、長時院を探り出さうとしたのである。然るに今度はからずも其を見出したので、私は非常に愉快に感じたのである。…御花(おはな)も上って居らねば、参詣する人とて一人もない。又此を管理する人もないらしい、さりとて浄土宗(じょうどしゅう)たるもの、あまりに不行届(ふゆきとどき)ではあるまいか。当年の湛慧律師、現今のあの墓の状態、誠に今昔(こんじゃく)の感(かん)に堪(た)へられず、知らず念仏数編(ねんぶつすうへん)、口の中で称へさせて貰うたことである。(舟橋水哉「倶舎を漁る記」『倶舎の教義及び其歴史』昭和15年所収、pp.257-261,1部表記変更、〔 〕・ルビ私)
これは、その昔、「倶舎」研究で有名であった、湛(たん)慧(ね)という僧侶の墓を探し当てた、という文章です。行ってみると、墓は荒れ放題で、著名な僧侶の墓としては、哀れであったと述べているのです。引用した中に「先ず太(うず)秦(まさ)の広隆寺(こうりゅうじ)を訪問した」という文句がありました。現在、その辺りは、映画のロケ地として有名です。ですが、古代日本におけるユダヤ教のメッカだったと言う伝説は、あまり知られていません。その宗教を「景(けい)教(きょう)」と呼びます。それについての研究は、佐伯好郎という学者が中心になって行われていました。彼の人となりを含め、以下に紹介してみましょう。
 景教についての論文をたくさん書いている学者に、佐伯好郎というひとがいる。もっぱら景教にばかりうちこんだので、景教博士と称されることも、なくはない。とはいえ、その業績が、学界でこれまで高く評価されたことは、あまりなかったと思う。アカデミックな東洋史家のなかには、眉をひそめるものさえ、いるかもしれない。佐伯の仕事、とくに初期のそれがけむたがられる理由は、その研究を読めばすぐわかる。とにかく、思いつきがとっぴで、破天荒なのである。地道の学究にうとんじられるのも無理はない。ここでは「太秦(兎豆麻左)を論ず」と題された若い頃の論文を、紹介しておこう。…佐伯の太秦論は、京都の太秦に古くからすんでいた秦(はた)氏一族のことを論じている。秦氏は、古代の日本にやってきた渡来人(とらいじん)の集団である。当時の大和朝廷は、京都=山城(やましろの)国(くに)に彼らを入植(にゅうしょく)させていた。太秦の広隆寺も彼らの手で造営されたのだと、考えられている。平安京の建設をささえたのも、彼ら秦氏の財力であったらしい。伝説では、始皇帝(しこうてい)の秦(しん)国(こく)がルーツだということに、なっている。秦から秦氏が来たというわけだが、もちろん、そのことがそのまま信じられているわけではない。いっぱんには、古代朝鮮それも新羅(しらぎ)からの渡来者だろうとされている。佐伯は、その秦氏がユダヤ系の渡来人だったのではないかとする新説を、この論文でうちだした。なんとも大胆な見解である。…もうすこし、話をエスカレートさせれば、いわゆる日(にち)猶(ゆう)同祖論(どうそろん)になる。日本人のルーツは、ユダヤ人だったという話に、飛躍させることもできるだろう。こういった話を、日本で、佐伯以前にとなえたものはいない。その意味で、「太秦を論ず」は、日猶同祖論のさきがけをなした言論として、位置づけうる。(井上章一「日本人とネストリアン」『創立10周年記念国際シンポジウム 日本における宗教と文学』1999,pp.34-35,ネットで披見可、ルビ私)
つまり、太秦は景教を奉ずる秦氏に由来し、その秦氏のルーツはユダヤである、という説が示されたわけです。景教は、もともと、ネストリウス教と呼ばれ、異端扱いされ、遠く、唐の都まで落ちのびた、と言われています。それが日本に伝来したとしても不思議ではありません。

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