新インド仏教史ー自己流ー

その5

説一切有部の説明はこれ位にして、次の犢子部(とくしぶ)に移りましょう。原語はvatsiputriya(ヴァーツイープトリーヤ)で、子牛の部派という意味です。由来はわかりません。この部派は、説一切有部から分かれたとも伝えられていますが、説一切有部がインド仏教に確たる地位を占めていたのに反し、異端(いたん)の代表格にされました。それは犢子部が、無我の教えに抵触(ていしょく)すると見なされたせいでした。8世紀ころに書かれた『真理綱要』という書物では、手ひどく批判されました。批判の冒頭は、おおよそ以下のようなものです。
 ある者ら(=犢子部)は、〔自身を〕仏教徒と思っても、プドガラを説くことを通じて、我を認めている。〔プドガラは、色・受・想・行・識という五薀と〕同一であるとか・別異であるとかを離れていると主張するが、釈迦の無我の教えに抵触するのである。
我の原語はアートマン(atman)です。一方、プドガラは原語のカタカナ表記です。アートマンもプドガラも通常は「人」を示す言葉でほぼ同じ意味です。呼び方が異なるだけです。犢子部は、呼び方を変えただけで我を認めていたというのが、批判の趣旨(しゅし)です。その趣旨自体は間違っていません。しかし、犢子部の言い分を聞くと、異端として、簡単に退けるわけにもいかなくなります。仏教では、人間は「色・受・想・行・識という五薀」の集合体と説きます。現代風に言うと、「肉体、そして感受等の4つの精神作用、その5つの集まり」であるとします。そこには魂や霊魂などは存在しません。死ねば、5つの集合体がバラバラになってしまうだけです。しかし、仏教では輪廻という生まれ変わりも認めています。死んで生まれ変わると、生存中とは違う5薀が集合するのです。どのような5薀が集まるのかは、業次第です。その人が生前なした行為(=業)で、次の生の5薀が変わります。因果応報です。ところで、この因果応報を成立させる基盤は何でしょう?反仏教のバラモン教では、「我である」と考えます。生前何かをなすのも我、その報いを受けるのも同じ我というわかりやすい論理です。困ったことに仏教は無我ですから、輪廻の基盤がわかりにくいのです。5薀はバラバラになり、生前と変わってしまうので、輪廻の基盤とはなりません。輪廻を成り立たせるためには、我のような自己同一性を保証する存在が不可欠です。借金を思い浮かべると輪廻の仕組みもよくわかると思います。AさんがBさんに借金したとします。Bさんに返済する際に、Aさんが「私は借金した時のAではありませんので、返済の義務はありません」と述べたとしたらどうでしょう?法律的には、AさんはあくまでもAさんとされて、返済の義務を負うでしょう。自己同一性が認められたからです。この論理は輪廻でも同じです。仏教の無我を認めると、借金返済のための自己同一性が保証されません。つまりは、輪廻も成立できなくなります。それでは困ると考えたのが犢子部なのです。彼らは、5薀という仏教本来の教えを守りながら、輪廻も守ろうとしました。そこで、5薀と同じでもないし、異なるのでもないプドガラという存在を想定しました。彼らなりの苦肉(くにく)の策(さく)だったのです。実際、プドガラを認める仏教徒は多かったようです。
プリーストリー(L.C.D.C.Priestley)という人の『プドガラ論仏教』(Pudgalavada Buddhism,the Reality of the Interminate Self,1999)では、こう述べられています。
 本書は、ある話から始まった。それは、大分昔、トロント大学仏教学生協会に向けてのものだった。私は、プドガラ論が無我の教義を、明白に否定していることに興味をそそられていた。事は、私の予想を超えて、複雑さを示すもので、プドガラ論は、かつてインドでは、非常に多くの支持者がいたという。この出会いは、私に以下のことを納得させたのである。つまり、これが、仏教の周辺部の小さな宗派のものではなく、インド仏教の主要部であったことである。(p.vii)
さらに、次のような指摘もあります。 
 この世に生を受けて、成長し,老いて、死んでいく生涯を通して同定(どうてい)される「私」というアイデンティティをまったく認めないことは、一種の「虚(きょ)無論(むろん)」であり、承服できないと考える仏教徒たちが常にいたのであろう。その発端は、・・・犢子部をはじめとするプドガラ論者達である。・・・仏教諸部派の間で彼らの見解は正統説とは認められなかったが、インド仏教の最後期まで大きな勢力を保持していたのである。(桂紹隆「インド仏教思想史における大乗仏教―有と無との対論」『シリーズ大乗仏教1 大乗仏教とは何か』2011年、所収、p.268、ルビ私)
上で言われているように、プドガラを認める仏教徒は多数存在したのです。異端などと片付けてしまうことにも疑問を感じざるをえません。
 部派の仏教を考える上で、彼らのアプローチの仕方をアビダルマと呼んでいることは大事な点です。アビダルマは「アビ」と「ダルマ」の合成語です。ダルマはよく「法」と訳されます。多様な意味を持ちます。「正義」・「規範」などがオーソドックスな意味でしょう。仏教では「釈迦の教え」という意味でも使われます。説法、転法輪という時は、釈迦の教えという意味で使用されています。「アビ」は「~に関して」という意味です。従って、アビダルマは「釈迦の教えに関するもの」を指します。

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