仏教余話

その125
原担山についての近年の研究として、
オリオン・クラウタウ「原担山にみる明治前期仏教言説の動向」『日本仏教綜合研究』7,2008,pp.69-86がある。クラウタウ氏の重要な指摘を1部紹介しておこう。
 仏教を「個人」の領域内に置く担山の立場を理解するために、江戸後期における儒学諸派の影響を念頭に置く必要がある。担山は一九世紀前期に、儒学者としての一流の教育を受けた者である。昌平コウで儒学を個人修養の道として理解した佐藤一斉に学んだことは、担山にとって少なからぬ影響があったものと考えられる。一斉はひとつの学派に拘泥するものを厳しく批判し、文章解釈の重要性を強調することでもたらされる弊害を指摘した人物である。知性偏重に対して圧倒的な嫌悪感を抱いた一斉は、こういった罠から逃れるために、言葉をいったん放棄し、「心」を学問の基とすべきであると提唱する。…個人的体験を主題歌していく担山の仏教思想は、近世後期における儒学思想の延長戦において検討する必要があろう。(オリオン・クラウタウ「原担山にみる明治前期仏教言説の動向」『日本仏教綜合研究』7,2008,pp.75-76,昌平コウのコウは変換漢字がないので、止む無くカタカナとした)
クラウタウ氏は、サワダ・ジエニー『実践追及―19世紀日本における宗教・政治・個人的啓蒙』(ホノルル、ハワイ大学出版、2004)Sawada,Janine.Practical Pursuites:Religion,Politics and Personal Cultivation in Nineteenth-Century Japan(Honolulu :University of Hawaii Press,2004)を注(22)で示す。欧米の日本仏教研究は、かなりのレヴェルまで上がっている証左であろう。


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