仏教余話

その73
そして、この議論は、チベットでも大いに、関心を引き、インドとは、全く異なった展開を見せることになる。以下、その辺の経緯を簡単に示しておこう。
「量成就」章の影響は、チベットでも、極めて、甚大であった。そもそも、「量成就」章の冒頭は「量の定義」を論じるものであるが、その内容はともかく、まず「定義」そのもののあり方を論ずるのが先ではないか。こういう考えが持ち上がってきた。そして、ダルマキールティが問題視しなかった「定義」を重要テーマとして取り上げるという、異例の事態が起こった。通常、「定義」は「定義の対象」との2項間で成立する。ところが、チベッ
ト人は、この2項に「通称」という3項目を加えることを提唱したのである。これは、インドの仏教論理学文献には、全くソースはないが、別分野である唯識派の文献『大乗荘厳経論』Mahayanasutra-alamkara(マハーヤーナ・スートラ・アランカーラ)や中観派色の濃い『現観荘厳論』Abhisamayalamkara(アビサマヤ・アランカーラ)に、その3項の
由来がある。こうした仏教論理学の枠組みを大きくはみ出していくきっかけも、恐らく、「量成就」章にあるのである。近年、「定義」等の3項の研究は進展しているとはいえ、まだ、和訳を躊躇するような傾向もあり、これからの分野である。この「定義」等の3項が、なぜ、それほど、大事かというと、それらの術語が当たり前のように、チベット人の仏教文献に登場してくるからである。分野を問わず、「定義」等は、文意を鮮明にするために、あ
るいは、論点を明確にするために、頻繁に使われる。だから、チベット人にとって、「定義」等の3項の術語は、決して、わかりにくい言葉ではないはずなのであるが、我々には、ピントこないのである。こうして、一切智者の問題は、思いもよらない拡がりを見せる。仏教論理学とは、様々な要素を含んだ割りに面白い学問であることが理解してもらえれば、よいと思う。魅力あるテーマとして、ご披露した次第である。


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