新インド仏教史―自己流ー

その5
では『ミリンダ王の問い』の和訳を抜粋してみましょう。
 ミリンダ王は、長老ナーガセーナに(問うて)こういったー
 「世人は尊者をいかがと心得まするか。(つまり)あなたは名をなんと仰(おお)せか」
 「大王どの、それがしは世にナーガセーナとして知られております。同門の人々は、大王どの、それがしをナーガセーナとして遇(ぐう)します。・・・この『ナーガセーナ』と申す者は、ここ(な名称)に(相即(そうそく)して特定の)人格的(ブッガ)実体(ラ)(が存在するものと)は認めらませぬ」
 するとミリンダ王はいったー
 「ご参集(さんしゅう)の各位(かくい)・・・は、それがしの提言(ていげん)を聞かれたい。これなる人物ナーガセーナは、『ここ(な世界)に人格的(じんかくてき)実体(じったい)(の存在)は認められぬ』などと申しますぞ。このこと、はたして是認(ぜにん)してよろしかろうか」-と。
 ここでミリンダ王は、長老ナーガセーナに(向きなおって)こういったー
 「ナーガセーナ先生、もしや(貴説(きせつ)のように)人格的実体(の存在)は認められぬとしますなら・・・(聖なる行為のいちいちを)行う当事者(とうじしゃ)はいったい何者なのでしょう。・・・善もなし、不善もなし・善・不善の行為をなす者も、なさしめる者もともになし。善・不善の行為がなされても、そこから醸成(じょうせい)しきたるもの(すなわち、因果(いんが)応報(おうほう)の)果なるものなし。ナーガセーナ先生、もしやあなたを殺す者があろうとも、彼に殺人罪はなし。・・・この際ナーガセーナとはいったいどれにあたるのです。先生,頭髪(とうはつ)が、ナーガセーナでしょうか」-と。(長尾雅人『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』昭和54年、pp.541-542、ルビ私)
つまり、ミリンダ王は、「人格的実体とは、その人本人であることを示すものである」と述べているのです。ごく常識的な捉え方です。本人確認が出来なければ、借金も出来ないし、返済の請求も出来ません。今で言えばIDのようなものです。社会は、IDを前提としなければ機能しません。ナーガセーナは、通常の本人確認を否定してみせたのです。この後、ミリンダ王は、「何がナーガセーナなのか?」という質問を延々(えんえん)と続けます。まず、こう尋(たず)ねます。
 頭髪(とうはつ)がナーガセーナでしょうか」(長尾雅人『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』昭和54年、p.542、ルビ私)
このように考えられるかぎりのものを駆使(くし)して、「~がナーガセーナでしょうか」と繰り返します。そのすべてに、ナーガセーナはノーと言い続けるのです。しびれを来(きた)したミリンダ王は、こう詰め寄(つめよ)ります。
 それがしは、先生、あなたに問いを重ねつつ、ナーガセーナ(のなんたるか)をいっかな合点(がてん)できませぬ。ナーガセーナとは、先生、単なる名辞(めいじ)に尽(つ)きるのか。それにしても(存在なくしては名辞はないはず、)この際、ナーガセーナとは何者か。先生、あなたは事実(じじつ)無根(むこん)の虚言(きょげん)をなされますぞ。『ナーガセーナ(なるもの)は存在せず』などと」(長尾雅人『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』昭和54年、p.542-3、ルビ私)
ここにきて、ミリンダ王の疑問がはっきりします。名辞と言う表現があります。簡単に言えば、名前の事です。ナーガセーナという名前には、ナーガセーナという実際に存在する人が大前提であるとミリンダ王は述べています。これもしごく常識的な考え方です。少し表現を変えると、「実在するものには、それを示す名前がある。名前=実在」という考え方です。
これに対して、今度は、ナーガセーナが王に問います。
 「大王どの、もしやあなたが車でおいででしたのなら、それがしに車の(なんたるか)をのべてくださいませ。大王どの、轅(ながえ)が、車でしょうか」・・・「車軸(しゃじく)が・・・車輪が・・・車室が・・・軛(くびき)が・・・軛網が・・・鞭(むち)打ち棒が、車ですか」(長尾雅人『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』昭和54年、p.543、ルビほぼ私)
難しい言葉が並んでいます。これらは古代の車の部品のことです。今風に言うと、タイヤが、車輪が、ハンドルが、エンジンが車でしょうか」と質問しています。当然ながら、ミリンダ王は、「どれも違います」と答えます。ナーガセーナは、締めとして、こう述べています。
比丘尼(びくに)ヴァジラーが世尊(仏陀)のおん前にて語ったところでございます。『部分を寄せて合わすとき これよりたとえば車という名辞(めいじ)の生ずるごとくにて、(五つの)組成(カン)要因(ダ)あるところ ここにはじめて生物という世上(せじょう)の通念(つうねん)が生じます』-と
(長尾雅人『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』昭和54年、p.544-5、ルビ私)


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