「倶舎論」をめぐって

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他に、第1章で、ダルマ議論では、必ず、引用される有名な句「自相を保持するので、ダルマである」svalaksanadharanad dharmahとよく似た句「自相を保持するので、界である」svalaksanadharanad dhatuh(S:p.304,l.10)も、この章に表れるのである。こうしてみると、色んな意味で、無視出来ない章なのである。ついでに、先の『倶舎論』の記述を彷彿たさせるような文章があるので、近代の訳を付けて、紹介しておこう。前にも引用したシャーンタラクシタ・カマラシーラ師弟の『真理綱要』及び「難語釈」の1文である。
 athapi syad vyavasthitasya dharmino dharmantaranivrttya dharmantarapradhurbhavah parinamo varnyate na tu svabhavasyanyathatvad iti/(G.O.S.:p.23,ll.22-23,S(T):p23,ll.14-15、サンスクリット原典ローマ字転写)
ci ste yang chos can rnam par gnas pa la chos gzhan log pas chos gzhan skye ba ni yongs su ‘gyur bar brjod kyi/rang bzhin gzhan du ‘gyur ba ni ma yin no snyam du sems na(デルゲ版、No.4267,Ze,153a/2、チベット語訳ローマ字転写)
この個所の従来訳を調べてみよう。本田氏は、こう訳す。
確定した(vyavasthita)性質を有する(実体)に一の性質が消滅して、他の性質が出現するのが変化であり、自性が異なることによるのではない。(本田恵『サーンキヤ哲学研究』上、昭和55年、p.229)
今西氏は、以下のように訳す。
変化とは現象的存在である属性の主体の或る属性が退隠すること(nivrtti)によって他の属性が顕現すること(pradurbhava)であると云われるのであって、自性が他のものになることにもとづいて(変化があると言われるの)ではない。(今西順吉「根本原質の考察:タットヴァサングラハ第一章訳註」『北海道大学文学部紀要』20(2),1972,p.169)
Jhaの英訳は、こうである。
’What is meant is that while the thing itself remains constant,one property of it disappears and another property appears,and this(variation of the Property)is what is called Modification;and it dose not meant that the very essence of the thing itself becomes different.’(The Tattvasangraha of Shantaraksita with the Commentary of Kamalashila,Vo.1,Delhi,1986,rep.of 1937 Baroda,p.38)
以上の3訳を整理すると、dharminは本田訳では「性質を有する(実体)」、今西訳では「主体」、Jha訳では’the thing itself’であり、dharmaは、本田訳では「性質」、今西訳では「属性」、Jha訳では’property’である。どれも穏当な間違いのない訳であろう。しかし、私は、実験的にこう訳してみた。
  あるいは、〔汝らサーンキヤは〕こう考えるかもしれない。「定まった(vyavasthita,rnam par gnas pa)状態の維持者(dharmin,chos can)〔=材料、即ち、根本原質〕にとって、ある状態(dharma,chos)が消失する(nivrtti,log pa)につれ、別な状態が出現すること(pradurbhava,skye ba)が、変化であると説かれるが、存在自身が別なものになること〔が変化〕ではない」と。
私はdharminを「状態の維持者」、dharmaを「状態」と訳してみた。その方が事態をよく把握出来ると考えたからである。訳語は安全策を取るよりも、自分なりに理解したものを薦めたい。以上、『倶舎論』第3章「世間品」の問題点に触れたが、前にも述べたように、この章の眼目は、1種の宇宙論である。『倶舎論』だけでなく、インド思想全体の宇宙論を論じた書物に定方晟『インド宇宙論大全』2011がある。興味深い話題を数々、扱っているので、1読を薦める。


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