新チベット仏教史―自己流ー

(以下にチベット仏教で特に重要と思われるトピックを中心に
その内実を考察してみます。インド仏教史と同様、通例の仏教史とは異なる
形態を取ります)
チベット仏教―サムイェの宗論―
その1 
チベット仏教というと、邪教(じゃきょう)のイメージさえあります。清王朝等を衰退(すいたい)に追い込んだことも、半ば事実です。しかし、インド仏教の正統的(せいとうてき)後継者(こうけいしゃ)は、紛れもなくチベット仏教なのです。中国仏教は、インド仏教に中国的要素を加えたものです。その成果が禅であると言われています。中国の人は、インド仏教を中国的に咀嚼(そしゃく)した点を誇りますが、懐疑的(かいぎてき)な見方もされています。日本仏教は、中国仏教をお手本としてきたので、その位置づけは、推して知
るべきでしょう。もちろん、チベットは、インドと中国にはさまれていますから、両大国の影響を受けています。それなのに、何故、チベット仏教は、インド仏教の後継者と言えるのでしょうか?それは、チベット人が、公式な見解として、「インド仏教を国教とする」と宣言したからです。そうするに至った原因を作ったのが、サムイェの宗論と呼ばれる、宗教論争です。
 サムイェの宗論は、チベット王の前で、インド仏教の代表者と中国仏教の代表者が、論争するというものです。結果、勝ちをおさめた方の仏教が正式に採用されたと伝えられています。とはいえ、これが本当にあったことなのか、それともただの伝承(でんしょう)なのか、真偽(しんぎ)はついていませんでした。それを歴史的事実として世界に広めたのが、ポール・ドミエヴル
(P.Demieville)の『ラサの宗論』Le Concile de Lhasa(Paris,1952)です。ほどなく、島田虎(とら)次(じ)によって抄訳(しょうやく)され(「ラサの宗論」東洋史研究17-4,1959)、我が国でも知られるようになりました。ドミエヴルは、敦煌(とんこう)出土の漢訳文献『頓悟大乗正理決(とんごだいじょうしょうりけつ)』を中心とした考察を行い、耳目(じもく)を集めました。それ以来、ラサの宗論というべきなのか、サムイェの宗論と呼ぶべきなのか、宗論のあった正確な年号はいつなのか、等々、様々な研究がなされてきました。宗論は1回だけでなく、長期にわたって続けられたとも言われ出しました。挙句の果てに、宗論、そのものの史実性を否定する意見さえ提示されました。ただ、チベットに数多くある「仏教史書」に、記載されていることを考えると、宗論の史実性は、一応、認めるべきなのかもしれません。

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