「倶舎論」をめぐって

CXII
更に、こう述べる。
 要するに世親の著作たる倶舎論は、有部の聖典にして、而も有部旧来の説其儘を踏襲せしものにあらず。経部及び其他の説、若しくは自己の新説に依て、有部の教義に根本的改善を加へ、有部と唯識との中間に位せる経部に近き一種の新宗教を設立したるが如き傾向あるを以て、後世倶舎宗と称し、多少有部と之を峻別せんとするに至れり。されど学者、倶舎の教義を叙述するに当りて、世親の意趣を明にするもの殆どなく、倶舎の教義として、而も有部の教義、其儘を開陳せるは、吾人の大に遺憾とする所なり。爲に世親の意趣今以て世に明瞭にされず、倶舎の体系が果して如何なるものかは依然として解決せられざる也。(舟橋水哉『倶舎の教義及び其歴史』昭和15年、pp.33-34,1部現代語表記に改めた)
次に、舟橋博士は、『倶舎論』の著者世親の思想的基盤について、伝統説を紹介している。以下の如し。
 世親の宗派といふことは、詳に云へば倶舎論の著者としての世親の宗派であって、之に就て古来種々の議論がある。古の術語で云へば、之を部宗と称して居る、小乗二十部の中で、どの宗に属するかといふことを決定する論目である。今古来の諸説を総合して見ると、大要左の五説を出ない様に思ふ。
  、大乗とする説。普寂の倶舎論要解一右二に、世親は元来大乗の人なれども、小乗有部に向ては直に大乗を説く訳にいかぬ、彼等を誘う爲に倶舎論を製作したのだと、かういふ様にいふてある。評曰、或意味に於ては面白い説とも云へ様が、しかし歴史上少しも根拠のないものだから、敢て論ずるにも足らない説だと思ふ。
  ろ、経部とする説。衆賢の順正理論巻十七及び巻五十二等に、世親を経主と呼んで居るのが元で、華厳の鳳潭なども、五教章匡真鈔巻三丁九九に、此説を取て居る。評曰、正理に経主とあるのは、之は世親が多く経部に依らるゝ所から、嘲弄的に名けたものであって、敢て世親の宗派を論じた訳のものではない。それで世親が経部に転派したといふこと様な伝説もなければ、又倶舎論が全く経部の教義を以て書かれたといふこともない、故に此説もよくないと思ふ。
  は、顕密両宗を立つる説。圓暉の倶舎論頌疏巻一右二二に、有部を顕宗とし、経部を密宗とするといふてある。評曰、一寸考えた様であるが、しかし顕密といふことは、実際に於て言はれぬ訳がある。なぜというに、顕に経部の説を取て居る所もあれば、又顕に有部の説を捨てた所もある、故に有部と経部とを顕密両宗に分けることは決して其当を得て居らぬ。鳳潭が頌疏冠註に於て、之を疏主の億段なりといふたのは、よく当たって居る様に思ふ。
  に、理長為宗とする説。法宝の倶舎論疏巻一右十八に、理の勝るを以て宗となす、一部に偏なるにあらずといふてある所から、湛慧の倶舎論指要鈔巻一右十八などに、唯理長を以て量となすと記してある。之は二十部のどれにと定めることはできぬ、理の長じた所を取て倶舎論を書いたのだから、それでつまり倶舎宗の開祖と見るといふ説になる。評曰、此説一応尤もである、世親は確に自由討究を試み、理長を宗として、主に経部に依り、倶舎論を著作したから、所謂正統有部からは異安心視され、経主とまで云はれたのである。それで後世倶舎宗といふ名目までできて、世親を此宗派の開祖と仰ぐ様になった。其は一面から見れば、さういふ様な傾向もないではないが、しかし世親の真意を調べて見ると、倶舎宗を開くといふ様な意味で以て、彼倶舎論を著作した訳ではない、して見れば此説もまだ穏当なものとは思へない。
 ほ、有部とする説。普光の倶舎論記一左一に、一切有の義を述すと雖、時に経部を以て之を正す、論師理に依て宗となす、朋執を存するにあらずとあり。又慧愷〔ガイ〕の旧倶舎序に、此論の本宗は是れ薩婆多部なり、其中の取捨は経部を以て正とすとある。故に世親の宗派としては、どこまでも有部であるが、しかし有部の教義に欠陥ある場合には、経部其外、理の長ずる所に従て、有部の教義を改善したのであると。評曰、私は此説を穏当だと思ふ、なぜかといふに、次の様な二三の理由が存在して居るからである。
  一、倶舎論毎巻の結尾に、説一切有部といふことが記してある。
  二、本文中に、有部を指して、我所宗とか、我宗とかいふてある。
  三、世親は有部で出家し、其後転派したといふ様な歴史的事実はない。経部を学んだことはあっても、其に転じたといふ様な事柄は決してない。
 世親当時の有部が正当であるかどうか明かでない、否恐らく正当を失して居った点があったに違ひない。其で世親の使命は、釈尊の阿含の教義を指針として、有部の教義を根底から改善せねばならぬといふ所にあったから、其時代の所謂正統有部からは、或は異端視されたのも無理はない。換言せば、世親は有部を離れずに自由討究を試みたのである。其意味は、定品の終りに、迦湿弥羅の義理成ず、我れ多く彼に依て対法を釈す、少しく貶量あるは我失となす、法の正理を判ずることは牟尼にあり、とかういふ様にいふ
てあるのでよく分る。されば世親の宗派はといふと、其はどこまでも有部だと決定せねばならぬ様に思ふ。(舟橋水哉『倶舎の教義及び其歴史』昭和15年、pp.3-7、〔 〕内私の補足、一部現代表記に改めた)
舟橋博士の解説は、伝統倶舎学の諸説を整理したもので、博士の見解は、当時、最も信用すべきものと思われる。しかし、近代『倶舎論』研究の成果は、この船橋説を根本的に否定する。始めに、紹介したように『倶舎論』著述の段階で、世親は、既に唯識であった、という説が、現在、最有力なのである。従って、船橋博士が、「敢て論ずるにも足らない説だと思ふ」と最初に、斥けた「い」の普寂説が、現代説に1番近いことになる。
 

CXIII
さて、舟橋博士の薀蓄を、適

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