「倶舎論」をめぐって

LIV
さて、斉藤氏は「『毘婆沙』と戯れる」という注釈家の文言を重要視する。しかし、たとえ、『大毘婆沙論』を信奉するグループが毘婆沙師だとしても、私の調査によれば、果たして、「戯れる」と訳してよいのか?侮蔑の意味なのか?判断するには、ちと、材料不足のような気もするのである。齋藤氏は、「侮蔑の意をこめて世親が「毘婆沙師(Vaibhasika)」の語を使用したとも考えられる。」と結論付けていた。確かに、侮蔑していたかもしれない。だが、それは、「意見を集成する」という著述スタイルへの反抗であり、「集成だけでなく、簡潔に正論を述べよ。」という意向が世親にあったためかもしれない。名称についての示唆的な言及について、大御所の所説を紹介しておこう。荻原雲来博士は、次の如くいう。
 迦湿彌羅の学者相会し発智論の解釈を造る、此れ玄奘の漢訳せる阿毘達磨大ヒ婆沙論(Abhidharmamahavibhasa-sastra)二百巻なるものなり、此の時より以前は阿毘達磨即ち対法を所依とするを以て此の宗の学者を対法師(Abhidharmika)と称せしが、此の頃よりして六足身論の細釈を専要とせるを以て此の宗の学者を毘婆沙師(Vaibhasika)即ち細釈師と呼ぶ(荻原雲来『印度の仏教』?序には大正3年とある、p.176)
荻原博士は、毘婆沙師を細釈師と呼称する。著述スタイルにも一脈通ずるようにも思われる。大蔵経データベースで、細釈師はヒットしないが、対法師は『大毘婆沙論』『倶舎論』などに用例が31ヒットする。呼称に関しては、網羅的な研究が是非必要であろう。また、昔の倶者学者、梶川乾堂という人は、こう述べている。
 毘婆沙とは、毘を或は広と翻し、或は勝と翻し、或は異と翻し、婆沙を説と翻す。謂く彼の論中、分別の義広きが故に広説と名け、説義勝るゝが故に、勝説と為し、五百羅漢各々異議を以て、発智論を解釈すれば、名けて異説と為す。(梶川乾堂『倶舎大綱』明治41年、pp.8-9、1部現代語表記に改めた)
この記述も、著述スタイルを伺わせるものであろう。更に、原典にも、毘婆沙の意味合いを、著述スタイルと看做し得る指摘がある。『倶舎論』に先行する『雑阿毘曇心論』の冒頭では、以下のように述べられている。
 毘婆沙とは、牟尼の所説の真実の意味について、質疑応答し、〔それに基づき〕判断して(分別)、ポイント(眞要)を追及することである。〔それは〕経に則っているので、皆の心を喜ばすのである。…無量の教えについて様々な意味合いの説があるから、色々な種類の多様な意見が生まれる、これを〔古の人は、「どんな意見も廃さない、自由な議論を尊ぶ」優れたやり方と考えて、そのような著述スタイルを持つ論書を〕毘婆沙論と名づけた。〔しかし、真の毘婆沙とは、簡明なものである〕。
 毘婆沙者、於牟尼所説性眞實義、問答分別究暢眞要、随順契経開悦衆心。…無量諸法種種義、生説種種類種種説、是名毘婆沙論。(大正新修大蔵経、No.1552、p.870a/6-11)
幾分、解釈過多の訳文かもしれないが、私には、異説を強引に排斥しようとしない、それ故、統制も取りにくい教団の姿を、示しているように読める。

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