「倶舎論」をめぐって

LXIV
さて、3つ目は、プールナヴァルダナ(Purnavardhana,満増)の『随相論』
(Nyayanusarini,ニヤーヤーヌサーリニー)である。これにも、サンスクリット語は残されていない。北京版No.5594として収められている。これについての簡単な情報は、福田琢氏の書評にあるので、まず、それを紹介しておこう。
 本テクスト(Peking.5594,Tohoku.4093)は先の称友〔ヤショーミトラ〕疏と同様、語義解釈を中心とした言わば正統的な『倶舎論』注である。…わが国では、このテクストがおおむね安慧〔スティラマティ〕釈を忠実に踏襲していること、ただし安慧釈に欠けている第九破我品〔第9章アートマンを否定する章〕については称友の注釈によく一致していることはすでに知られている(cf.櫻部建「破我品の研究」『大谷大学研究年報』12,1959)ただし、安慧、称友の注釈との関係はまだ全面的に検討されているわけではない。(福田琢 「書評・紹介Marek Mejyor: Vasubandhu’s Abhidarmakosa and the Commentaries Preserved in the Tanjur」『仏教学セミナー』60,1994、p.82、〔 〕内は私の補足)
江島恵教博士は、この従来説とは異なった見解を提示している。博士の見解は次のようなものである。
 スティラマティの『真実義』(Tattvartha)は別名が『雹雷光』〔ばくらいこう〕と伝えられるように、サンガバドラ〔=衆賢〕の『順正理論』=『倶舎雹論』〔くしゃばくろん〕を電光の如くに打ちくだく意図をもったタイトル設定であろう。プールナヴァルダナはスティラマティの弟子であると伝えられるが、それが正しいと仮定しても、決して師と同じようにサンガバドラに批判的ではなく、むしろ好意的である。師とは袂を分かっているとしか思われない。彼の『倶舎論』註釈のタイトル『随相論』(Laksananusarini)〔ラクシャナアヌサーリニー〕はサンガバドラの『順正理論』(Nyayanusari-sastra)〔ニヤーヤアヌサーリシャーストラ〕に一脈通ずるところがあり、また比較的サンガバドラに批判的でもあるヤショーミトラの註釈が、スティラマティの『真実義』(Tattvartha)〔タットヴァアルター〕とも連なりうる『明義論』(Sphutartha)〔スプタアルター〕であることも、一顧に価するのではないか。(江島恵教「スティラマティの『倶舎論』註とその周辺―三世実有説をめぐってー」『仏教学』19,1986、pp.20-21、〔 〕内は私の補足)
かって、江島博士と似た印象を抱いたことがある。「自相を保持するので、ダルマである」という『倶舎論』の有名な句を読んだ時、プールナヴァルダナは衆賢寄りの立場で、世親・ヤショーミトラ・スティラマティとは一線を画していると思った。つまり、説一切有部側なのが、プールナヴァルダナと衆賢と感じたのである。(木村誠司「『倶舎論』におる’svalaksanadharanad dharmah’という句について」『駒沢短期大学仏教論集』7,2001,p.258、pp.270-242参照)


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