新インド仏教史ー自己流ー

その2
 仏陀の死後、仏陀が成道(じょうどう)以来四十五年にわたって説いた教えが蒐集(しゅうしゅう)された。これを第一結集(けつじゅう)(samgiti、サンギーティ)という。このとき「法(ダンマ)」(Dhamma)と律(ヴィナヤ)(Vinaya)とが集められたという。当時、既に文字はあったが、聖典(せいてん)の伝承(でんしょう)は暗記によった。そして「ダンマ」(教理)としてまとめられたものが、伝承の間に整理されて経典にまとめられ、集められて「経蔵」(Suttapitaka スッタピタカ)になる。「ヴィナヤ」(戒律)として集められたものが整理されて「律蔵」(Vinaya-pitaka ヴィナヤピタカ)となった。(平川彰『インド仏教史』上、p.57,ルビほぼ私)
シャカの死後、教えを守るために弟子が集まって相談し、シャカの教えを残しました。この集まりを「結集」と言います。これは何回かあったようです。しかし、結集は史実なのでしょうか?これについては、内外の学者の意見と種々の資料を使った研究があります。その中で、こう述べられています。
 伝説に含まれて個々の事項(じこう)の史実性はしばらく問わず、ただそのような伝説を生む基(もと)となった根本聖典結集の企(くわだ)てが仏滅後(ぶつめつご)遠からぬ時においてなされたという事実のみに限るならばその史実性を疑う余地(よち)は無い。(櫻部建「結集に関する伝説の考察」『印度学仏教学研究』9-1、1961年、p.68、ルビ私、現代語標記に変えた)
つまり伝承には様々なヴァリエーションはあるけれど、実際にあったことを反映していると述べているのです。シャカの死後、そして結集の様子を概説した記述を引用しましょう。
 ブッダ入滅の後には、圧倒的な存在感でサンガ〔=教団〕を統率(とうそつ)してきた開祖(かいそ)の影響がしだいに薄れていった。仏教が広まっていくにつれて次第(しだい)にサンガの規模(きぼ)も大きくなり、それぞれの地域の社会情勢や経済状態の影響を受けて、その運営にはさまざまな問題が生じてくることになる。また、経典(きょうてん)や律(りつ)典(てん)には、教理的な解釈上の相違だけでなく、サンガ内における修行の方針や宗教的な考え方の相違、さらには個人的な性格の違いに起因(きいん)するとみられる争論(そうろん)も記されている。・・・ブッダの取り巻きから距離を置いて修行を行っていたマハーカッサパが、ブッダ亡きあとの教団の指導者としての位置を占めるようになる。(池田練太郎「仏教教団の展開」『新アジア仏教史02インドII 仏教の形成と展開』平成22年、pp.133-134、ルビ私)
ここでは、シャカの死後、マハーカッサパという僧が指導的役割を担(にな)ったことが指摘されています。実際1回目の結集は、マハーカッサパが中心であったと言われています。以下のように述べられています。

 迦葉(かしょう)〔=マハーカッサパ〕が第一結集の上首(じょうしゅ)であり、結集の立役者(たてやくしゃ)でもあり、且(かつ)、その任に堪(た)えうる資格を十分に持っていたことは、経典の指示するところである。そして迦葉自身も亦(また)、仏(ぶつ)入滅後(にゅうめつご)の教団を率(ひき)いる者は自分を措(お)いて他にないと自認していたようである。(雲井昭善「阿難と迦葉(随信と随法)」『印度学仏教学研究』3-2、1953年、p.132、ルビ・〔 〕私、現代語標記に改めた)
マハーカッサパの自信のほどが示されています。しかし、先に「ブッダの取り巻きから距離を置いて修行を行っていたマハーカッサパ」と指摘されていることは見逃せません。実は、シャカの身近に常に仕えていたのは、アーナンダと言う僧でした。論文では、こう述べられています。
 阿難(あなん)〔=アーナンダ〕が、その生涯の二十五年を仏陀の近侍者(きんじしゃ)として送ったことは、改めて述べる迄(まで)もない。仏陀の信頼感が、他の弟子よりも阿難に多く与えられていたことは、経典の随所(ずいしょ)に窺(うかが)いうる所である。阿難が、教法(きょうほう)の最大のエキスパートであったことも、二十五年の随(ずい)信(しん)生活が何よりもよく実証している。(雲井昭善「阿難と迦葉(随信と随法)」『印度学仏教学研究』3-2、1953年、p.131、ルビ・〔 〕私、現代語標記に改めた)
こういう僧であったなら、彼こそが結集の指導者にふさわしいはずです。でも、指導者はマハーカッサパだったのです。ここには何らかの謎がありそうです。論文では、この点をこうまとめています。
 仏陀教法のエキスパートであった阿難を度外視して、結集の機能は発揮されず、又(また)その意義をもなさない。と同時に、阿難の一面進歩的な態度は、長老迦葉一派にとっては許し難い点でもあった。この二面が、第一結集の舞台(ぶたい)裏(うら)で静かに回転していたと解される。(雲井昭善「阿難と迦葉(随信と随法)」『印度学仏教学研究』3-2、1953年、p.132、ルビ私、現代語標記に改めた)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?