仏教余話

その232
これに比べて、宮本啓一博士の解説は、幾分、納得がいく。博士はいう。
 ヴァイシェーシカ流にいますと、「真四角の円形ドーム」はあり得ないものとして実在する、となります。言語表現があり、かつそんなものはあり得ないと理解できるのですから、あり得ないものとして実在するのです。昔、ハーヴァード学派の開祖的存在であるクワインは、「真四角の円形ドーム」は意義(sense)は持つが意味(meaning指示対象)は持たないとしてこの問題の解決としましたが、論理的簡潔性という点からすれば、ヴァイシェーシカ流の方が優っていると思います。フイクションも、ヴァイシェーシカ流で簡単に片が付きます。すなわち、「ドラえもんのタケコプター」はフイクションとして実在するといえばよいのです。また、事実かフイクションか分からないもの、例えば「弁慶の七つ道具」は事実かフイクションか分からないものとして実在するといえばよいのです。(宮元啓一『インド人の考えたことーインド哲学思想史講義』2008,p.147)
これによれば、梶山博士のいう「神話的な観念や不合理な観念」だって、実在するはずである。およそ人間が思考可能なものであれば、何でも実在する、というのがヴァイシェーシカ流なのだ。だとすれば、説一切有部もそうなのだろうか?この点については、何とも、断言出来ない。だが、予感として思うのは、ガチガチの堅物で、「煩瑣学」とか「学者の玩弄物」とか揶揄される説一切有部も、存外、思考の自由性は認めていたのではないか、と
いうことである。大分以前に少しだけ触れたが、説一切有部は、いわゆる小乗仏教で、中国や日本で興隆した大乗仏教からすれば、不倶戴天の敵である。時代的にいえば、新興勢力であった大乗仏教にとっては、口うるさい、古臭い、頭の固い、頑固おやじが、説一切有部なのである。このイメージがある限り、実情は把握出来ない。雰囲気的に、あるいは、時代の流れで、説一切有部は、片隅に追いやられてしまったが、恐らく、理論的には、批判仕切れていないだろう。この点、それを達成したかのように評価されているナーガールジュナ(龍樹)の『中論』だって、怪しいのである。昨年度、世間を騒がせた風評被害のようなもので、うわさに過ぎないような気がするのである。何かというと、金科玉条のように『中論』を持ち出し、ナーガールジュナの功績を褒め称える人が多いが、私は、もう1度、検証し直すべきだと考えている。大分、余計なことを話したが、我々の第1のターゲットは、変わらず、『倶舎論』である。もう少し、同書にまつわる状況を整理しておこう。『倶舎論』の作者は、有名な世親(Vasubandhu,ヴァスバンドゥ)である。後の注釈家に第2のブッダと讃えられたこの学僧が、カヴァーした思想的分野は、極めて広い。そのため、世親2人説などのような説も、当たり前のように、学界に流布していた。


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