世親とサーンキヤ

その17
『倶舎論』では、はっきり、この法救説をサーンキヤと断じてこういう。
 しかし、これらのうち、第1〔の法救説〕は、変化論者なので、サーンキヤの立場に入れるべきである。
 esam tu prathamah parinamavaditvad Samkhyapakse nikseptavyah/(p.270,l.4、サンスクリット原典ローマ字転写)
de dag las dang po ni yongs su ‘gyur ba smra ba’i phyir grangs can gyi phyogs bslan par bya ‘o//(Gu,281a/5、チベット語訳ローマ字転写)
しかし、『倶舎論』を批判した衆賢(Samghabadra)の『順正理論』は、これに同意しない。
次のようにいう。
 最初〔に挙げられた法救説〕は、〔『倶舎論では〕、「変化論なので、サーンキヤの立場に入れるべきである」とするが、今言おう。「そうではない」と。彼の尊者〔法救〕は、「現象世界のダルマにとって、その本質は常住であり、三世を経過する時、状態が消失したり、現れたりする」と説いているのではない。ただ、「諸のダルマは、時間の経過に伴い、〔夫々の〕本質のあり様は同じように〔規定されている〕けれども、〔実際の〕状態や種類は異なる」と説いているのである。これは〔『倶舎論』で正統説とされた世友説〕と類似する。
 最初執法轉變故應置在數論朋中。今謂不然。非彼尊者説有爲法其體是常、歴三世時法隠法顯。但説諸法行於世時、體相雖同而性類異。此與尊者世友分同。(衆賢『順正理論』、大正新修大蔵経、No.1562,631b/6-10)
また、衆賢の別著『阿毘達磨顯宗論』(大正新修大蔵経、No.1563,902a/3-6)にも全くの同文で、『倶舎論』批判が行われている。(この指摘を最初に行ったのは、私の知る限りでは、木村泰賢『木村泰賢全集 第五巻 小乗仏教思想論』2004、オンデマンド版、rep.of 昭和43年、pp.145-146である)中村元博士は、このような思想的攻防について、こう述べている。
 『倶舎論』では尊者ダルマトラータの「類の不同」という説はサーンキヤ説に類似しているといって斥けられるているが、サンガバドラによればその説もけっして有部の正統説と矛盾せず、ヴァスミトラの説と同趣意であるという。『大毘婆沙論』からみても、元来有部はサーンキヤ説のような現象的存在の本質の変化である自体転変を否定しているが、はたらきによる作用転変または可能力による変化である巧能転変は承認している。したがって、ダルマトラータの説が、作用転変または巧能転変の意味ならば、サンガバドラのいうようにかならずしも排斥する必要はないであろう。ようするに有部としてはヴァスミトラの説を正統説とし、ダルマトラータの説をこれと同趣意に解釈してよいがどうかに関しては後世の諸学者の間に二説があったのであろう。(中村元『中村元選集[決定版]第20巻 原始仏教から大乗仏教へ』1994,p.172)
これらの資料からは、説一切有部とサーンキヤとの微妙な思想的類同性が感じられる。合わせて、従来の訳の限界のようなものを認識してもらえれば、よいと判断する。他に、サーンキヤ思想のあり様を考える上で、示唆的な見解を挙げておこう。

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