「倶舎論」をめぐって

LXXXIII
さて、現銀谷氏は、『倶舎論』の二諦説の鍵をsvabhava(スヴァバーヴァ)とし、次のように論を展開していく。
 この勝義有・世俗有のポイントは世俗有には本質(svabhava)が存在せず、勝義有のみにそれが存在するという点に存する。言い換えれば、世俗有が解体される存在であるのは、本質を持たない存在であるからだということである。世俗有、例えば、壺がハンマーによって破壊された場合、破壊を被る対象は言語的存在なのであって、壺という自性が破壊されるわけではなく、五蘊・十二処・十八界に包摂される諸法が勝義有なのであり、且つ自己同一性を維持する存在なのである。上記の点を踏まえて次節ではチベット倶舎論註ではどのように二諦が規定されているのかを見たいと思う。(現銀谷史明「二諦と自性―チベットにおける〈倶舎論〉解釈の一断面―」『東洋学研究』39,2002,p.145)
少々、意味不明の箇所もあるが、勝義有がsvabhavaであり、世俗有はanti-svabhavaといいうことなのであろう。厳密にいえば、分析の結果、最終的に残ったものを、svabhavaと呼び、それが勝義有であり、分析可能な状態にあるものが世俗有なのだと世親は述べていると思われる。次に現銀谷氏は、『チムゼー』の二諦説の和訳を提示し、その特徴をこう述べている。
 上記のような分析は『倶舎論』とも共通のものであるが、『荘厳』〔=『チムゼー』〕では、自性〔sabhava〕の有無によって二諦が区別されているとは言わず、部分をもつものすなわち全体を世俗有とし、その構成要素である部分―部分自体は部分をもたないーを勝義有と規定している。…世俗有を勝義有を自性の有無からなのではなく、部分を持つ粗大な或いは連続するものと微細な或いは刹那という世俗有を構成する要素からの分類は、世俗有も勝義有を存在の根拠として定立することができるという存在論的な規定となっているのである。(現銀谷史明「二諦と自性―チベットにおける〈倶舎論〉解釈の一断面―」『東洋学研究』39,2002,p.147、〔 〕内は私の補足)

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