新チベット仏教史―自己流ー

その6
一方、さらに、汚れあるもの(nyong mongs can,klista 、有染汚)と汚れなきもの(nyong mongs can ma yin p,aklista、無染汚)の言説〔言語化された〕知(によって、真理と把握されるので、そのように述べられる。即ち、『倶舎論注 王子』〔=ヤショーミトラ(Yasomitora)作『明瞭義』Sphutartha〕において、「日常的真理である。その汚れあるものと汚れなきものの世俗たる言説〔言語化された〕知によって、把握されるので、日常的真理なのである」と説かれているのである。
究極的真理の実例は、諸々の色形や感受や想念や心や心作用といった独立したものである。究極的真理といわれる理由は、あるものを、破壊等によって、分析しても、自分自身の認識を捨てられない色形等それらは、確実に、究極的存在なので、究極的真理というと『倶舎論』の自注で説かれているのである。さらに、究極的(勝)とは、出(しゅっ)世間(せけん)の智慧であり、それの目的として存在する対象なので、究極的真理なのである。プールナヴァルダナ(Gang spel,Purnavardhana)〔注『随相論(ずいそうろん)』〕において、「究極的(勝)とは、出世間の智慧であり、それの目的として存在するが対象が究極的なのである。」と説かれている。
しかしながら、これら〔二諦〕について、尚正確さが必要である。〔全体を構成する部分たる〕素材・〔その素材の集合体である〕暫定的(ざんていてき)なものの区別は、勝義として成立しているものを「素材有」、世俗として成立しているものを「暫定有」とするのである。
その明晰(めいせき)さを示すために、長い引用をしてみました。以上のようなチベット仏教の知識を活かして、研究することが現代では一般的です。
 

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