仏教余話

その8
さて、何度も登場した釈宗演という僧侶についても、簡単に触れておこう。彼は、禅を世界に広めた鈴木大拙の師でもある。禅の海外布教という面では非常に功績のある人物であり、先頃物故したスティーブ・ジョブズの禅への傾倒も、本をただせば、宗演の蒔いた種の1つが開花したといえるかもしれない。宗演自身も慶応大学で英語等を学び、セイロン仏教にも関わりを持つという一代の英傑であった。1893年にシカゴで開かれた「万国宗教大会」に日本仏教のメンバーの1人として出席したのは、漱石と会う1年前のことである。明治期の仏教は、廃仏毀釈という弾圧をくぐりぬける処置を各宗派が画策したこともあり、西欧化の中で、面白い展開を見せる。宗演・鈴木大拙、そして、日本美術復興のきっかけを与えたフェノロサ(E.F.Fenollosa,1853-1908)についてのコメントを紹介して、当時の雰囲気を感じてもらいたい。
 一八七八(明治十一)年八月十日に、その草創期の東京大学に、ハーバード大学出のアメリカ人学者フェノロサ…が着任する。以後、東京大学で哲学や経済学を講義すると共に、日本美術や東洋美術にも関心を持ち、東京美術学校の設立にもかかわって、岡倉天心や狩野芳崖など、多くの学生はもちろん、当時の仏教関係者たちにも大きな影響を与えた。…フェノロサはハーバード在学中に当時流行したスペンサーの進化論の強い影響を受けて既にスペンセリアンであったとされるから、「創造者」である「神」への信仰を出発点とするキリスト教には早くからかなり失望していて、それが、創造神を認めない新たな宗教の可能性としての仏教に対する期待感へと変わっていったものと考えられる。しかも、そのようなフェノロサの話しを聞いた当時の日本の仏教関係者の多くは、維新直後の廃仏毀釈に懲り、自由民権や信教自由の運動の強力な思想背景とされたキリスト教の排斥に向かっていた明治政府に擦り寄っていたこともあって、フェノロサの反キリスト教的で親仏教的な見解をアメリカ人学者にである「他者」による「自己」の証明として大歓迎したのである。…彼の帰国後三年目の一八九三(明治二十六)年にシカゴで〔万国宗教大会(The World’s Paliament of Religions)」が開催されることになる。…「釈宗演は九月十八日、大会委員長H.バローズーJohn Henry Brrows1847-1902-の代読で、随行の鈴木貞太郎の英訳した「仏教の要旨并に因果法」を発表した。シカゴの宗教家ポール・ケーラス-Paul Carus,1852-1919-はこれを聴いて大いに感激し、宗演にシカゴ滞在を懇願したが、宗演は鈴木貞太郎をケーラスに預けて帰国した。ケーラスは宗演に教えられた仏教の因果法を一般に理解し易い因果応報の物語に改編し「カルマ」と題して自分の経営する雑誌『オープン・コート』に掲載、また自著『ゴスペル・オブ・ブッダ』を書いて宗演に送った。この両編は鈴木貞太郎によりそれぞれ『因果の小車』、『仏陀の福音』と訳され日本でも刊行されている。『因果の小車』の中に盗賊犍陀多の登場する蜘蛛の糸の話があり、これを芥川龍之介が童謡として借用することになったのも、仏教的因果であろう。鈴木貞太郎は後の鈴木大拙博士である。」(袴谷憲昭『日本仏教文化史』2005,pp.243-248,〔 〕内は山口静一『フェノロサー日本文化の宣揚に捧げた一生―』1982の孫引きである)
芥川の話にまで、つながって、興味深い内容である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?