Tips of Buddhism

No.44
Anyone who has read even a little about medieval Japanese religion has no doubt encountered at least one reference to the immensely influential Tendai Buddhist discourse of “original enlightenment”(hongaku),the assertion that all beings are Buddhas inherently.And anyone who has studied a bit further may well have been struck by the profound ambivalence surrounding “original enlightenment thought”(hongaku shiso)as discussed in modern scholarship
.(Jacqueline I.Stone;Original Enlightenment and the Transformation of Medieval Japanese Buddhism,1999,Honolulu,p.xi,ll.1-7)

(訳)
ほんの少し、中世日本宗教を齧(かじ)ったことのある人なら、天台(てんだい)仏教の「本覚」説の途方もない影響に関して、最低でも1つの言及に出会う。疑いなくそうである。〔「本覚」とは〕、「一切衆生(しゅじょう)は、本来、仏である」という説である。そして、やや勉強の進んだ人は、現代の学者が話題とするほど、「本覚(ほんがく)思想(しそう)」に取り囲まれている深い矛盾に、打たれるだろう。

(解説)
中世日本仏教を席巻した「本覚(ほんがく)思想(しそう)」は、別名「如来蔵(にょらいぞう)思想(しそう)」ともいう。『平家(へいけ)物語(ものがたり)』には、白(しら)拍子(びょうし)、祇(ぎ)王(おう)・祇女(ぎにょ)が登場する。彼女たちの有名な歌を読んでもらえば、本覚思想の骨格(こっかく)は一目瞭然(いちもくりょうぜん)であろう。
 仏も昔は凡夫(ぼんぶ)(=ただの人)なり、われらも終(つい)には仏なり
 何れも仏性(ぶっしょう)具(ぐ)せる身を 隔(へだ)つるのみこそ悲しけれ
つまり、仏も我々も仏性という「仏に成る因」を持っているので、差はない、と述べているのである。無論、本覚思想には様々なヴァリエーションがあって、これだけがすべてではない。種々のバリエーションはあるが、基本的には「すべての人は、本来悟っている」という教えである。
この思想は、人間のみならず、動植物までもが仏と一体であるとするような考え方につながる。山川(さんせん)草木(そうもく)悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)あるいは山川草木悉(さんせんそうもくしつ)有(ゆう)仏性(ぶっしょう)というキャッチフレーズに代表される。著者ストーンの言うように、天台・比叡山(ひえいざん)・延暦寺(えんりゃくじ)が総本家である。この説に異論を唱えて、鎌倉新仏教、即ち、法(ほう)然(ねん)の浄土宗(じょうどしゅう)、親鸞(しんらん)の浄土(じょうど)真宗(しんしゅう)、日蓮(にちれん)の日蓮宗、道元(どうげん)の曹洞宗(そうとうしゅう)等が生まれたとされる。その評価は様々であり、近年にも議論は沸騰(ふっとう)した。ただし、「本覚」の英訳にも決定版はない。つまり、「本覚」の内実は、不透明なのである。ストーンは、注において、こう述べている。
 「本覚」の最上の英訳について、学的な意見の一致はない。「本来的悟り」(Original enlightnment)「生得の悟り」(innate enlightnment)「本来備わっている悟り」(inherent enlightnment)というすべてが使用されている。「日本宗教研究」14/2-3号、1987年6-9月への序文において、ポール・スワンソンは、こう注記した。「どれも満足のいくものではない」。
There is no scholarly consensus as to the best English translation of the term hongaku.”Original enlightnment,””innate enlightnment,”and “inherent enlightnment,”Have all been used.In his editor’s introduction to the June-September 1987 issue of the Japanese Journal of Religious Studies 14/2-3,Paul Swanson notes:”None of these is entirely satisfactory:…(ibid.,p.369,ll.1-5)
本学思想は、現実肯定主義のあまり、差別さえも肯定してしまうマイナス面もある。修行無用論さえ理論的には許されてしまう。その点は忘れないで欲しい。30年ほど前、駒澤大学の学者を中心として、本覚思想批判、如来蔵批判が華々しく展開された。


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