仏教余話

その191
博士は、次のような注目すべき発言をする。
 次にMUにおいてはアートマンの形容として無我が説かれているのを見た。これに対応する説は原始仏教の中にはないが、Mahayana-sutralamkara(『大乗荘厳経論』)九・二三偈には
  『清浄なる空性において、無我なる最上我を得たるが故に(nairatmyatmagra-labhatah)諸仏は清浄なる我を得たものであるから、我の大我性(atma-mahatmata)に達している』(p.37/25-26)
 という。この偈は〔如来蔵思想を宣言する論書〕『究境一乗宝性論』巻三(『大正』三一、八二九下)や〔やはり、如来蔵思想を説く〕『仏性論』巻二(『大正』三一、七九八下)にも引用される。また大乗の『大般涅槃経』には種々大我を説くが、その中に、「涅槃無我大自在故名為大我」(『大正』一二、五○二下、七四六中)とも言う。ともに無我を理由として大我が説かれているのである。ここでは無我なる我が説かれているわけで、MU
の無我説に対応する思弁と考えられるが、原始仏教にはない説である。(村上真完『サーンクヤ哲学研究―インド哲学における自我観―』1978,pp.756-757、〔 〕内私の補足)
この村上博士の所説からは、大いなる疑問が沸く。『大乗荘厳経論』の偈は、はっきり如来蔵思想である。完全にマイトリ・ウパニッシャドと同じような我説である。つまり、「仮の我」は否定するけれども、「真の我」は是認するという二重構造の我説である。博士は「原始仏教にはない説である」というが、今まで見てきた感想を正直にいえば、「原始仏教にも符号する我説」のようにも写るのである。


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