仏教余話

その136
しかして、このカントの影響は、「仏教論理学」にも深い影を落としているのである。寄り道ついでに、その辺の経緯を、まずは、湯田博士の記述を皮切りにして見ていきたい。湯田博士は、こう述べる。
 ロシアの仏教学者シチェルバツコーイ〈Th.Scherbatsuky〉〔一八六六―一九四二〕は、彼の主著『仏教論理学』(Buddhist logic)第一巻において、カントの理論的枠組みを用いて〈中観派の開祖〉ナーガールジュナ、〈仏教論理学派の大立者〉ディグナーガおよびダルマキールティの哲学を解釈している。シチェルバツコーイは現象および本体〔物自体〕というカント哲学の基本的な考え方に基づいてナーガールジュナの”空性”(sunyata)を解釈する。”空性”というコンセプトによって、ナーガールジュナは現象を否定したけれども、物自体あるいは究極の実在は否定しなかったーこれがシチェルバツコーイの解釈である。彼の解釈に従えば、ナーガールジュナの中観の体系は”徹底した一元論”として理解された。…カントによれば”物自体”はわれわれの経験によって知られ得ない。現象界を超越する知識を理性は与えることが出来ないからである。しかるに、シチェルバツコーイの仏教論理学者〈=ディグナーガ・ダルマキールティ〉は、究極的実在を意識することを可能とみなすのである。…仏教論理学において中心的なのは”刹那”あるいは”ユニークなもの”である。シチェルバツコーイはこれを”物自体”として理解した。それはそれ自身における事物であり、相関関係を有しない何かあるものである。(湯田豊「インド哲学の理論的枠組みの組み換えについて」『現代思想 特集 インド的なるもの』1994 vol.22-7 6,pp.232-233,〈 〉内は私の補足)
同様な批判は、随所に見られる。現代の代表的ダルマキールティ研究者である、赤松明彦氏は、こう述べている。
 かれの研究の特徴は、その解釈が文献学的であるよりも、より哲学的な傾向を帯びていることである。しかも、かれの哲学的解釈の背景には、カントを中心とした西欧における認識論の体系があった。このことは、かれの研究の独創性を形図来るとともに、欠点にもなったのである。…シチェルバツキーは、本質的属性にもとずく推理、さきの例でいえば、「作られたものである」と言う性質によって、音声の非恒久性を論証する場合に、その大前提にあたる命題を、分析判断にもとずく命題と考える。はたしてこれは正しい
だろうか。確かに、非恒久性と「作られたものである」という性質は、ともに、音声という同一の実在を概念的に分析した結果構想された属性概念である。しかし、カントによれば、分析命題の概念から導きだされる事実は、アプリオリなものであり、それはまったく経験から独立したものなのである。はたして、こうした経験から独立した形式的な真理や、概念の領域においてのみ成り立つ真理を、ダルマキールティは認めるであろうか。答えは否である。…シチェルバツキーの『仏教論理学』は、このような解釈上の問題を残すものであり、仏教論理学への入門書としては不適当と言わざるを得ない。しかし、もしわれわれが、これを批判的に研究するならば、多く啓発される点を含んでいるのも事実であり、いまなお、この書の重要性は失われていない。」(赤松明彦「ダルマキールティの論理学」講座・大乗仏教9 認識論と論理学、pp.189-190)


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