因明(インド論理学)

その9
さらに、こう述べている。
問題を論ずるに当たっては新因明をその体系中に取り入れたインド大乗仏教後期の唯識系論師たる彼自身の独特な思想的立場をよく示しているということができる。...最後の問題に対してはそういう論理の領域を超えたものを根拠にしての批判がなされており、この点において、シャーンタラクシタが徹底した論理主義をおし通しながらも、修行者の智・仏陀の智という謂わば宗教的な領域においては、伝統的な無分別智の立場を超えるものではないことが知られるのである。(菅沼晃「寂護の三世実有批判論―Tattvasamgraha,Traikalyapriksa―」『東洋大学大学院紀要』1、1964年、pp.78-79)
菅沼博士は、『真理綱要』の他の章、特に、「外界対象の考察」(Bahirartha-pariksa、バヒルアルタパリークシャー)や一切知者を扱う「超感覚対象を見る者の考察」(Atindriyarthadarsi-pariksa,アティインドリヤアルタダルシーパリークシャー)の論述を比較検討し、上記のような見解を示した。博士が触れる無分別智の問題は、仏教の根幹に関わる大問題である。私は、博士の見解には疑問を持っている。私は、無分別智は、合理的思考の極地であると認識しているが、論証してはいない。次に、秋本勝「TS三世実有説批判(摘要)」『筑紫女学園大学紀要』3、1991年、pp.1-11がある。これには英文の論題も提示されている。A Summary View of Santaraksita’s Critique of the Sarvastivadin Time Theory「説一切有部時間論に対するシャーンタラクシタの批判の要約」がそれである。秋本氏は、『倶舎論』そのヤショーミトラ注『明瞭義』、スティラマティ注『真実義』の「三世実有論」を翻訳研究した上で、『真理綱要』の「三世実有論」を扱っている。氏は、論理学にも通じているようなので、『真理綱要』の時間論を論ずるのには、打って付けの研究者である。秋本氏は、次のように『真理綱要』の論述の要点を示す。
 〔三世実有論に関して提示された『倶舎論』に始まる〕「教証・理証」及び「三時(過去・現在・未来)に存在する構成要素(dharma)と作用(karitra)との関係」が議論の中心となる。(秋本勝「TS三世実有説批判(摘要)」『筑紫女学園大学紀要』3、1991年、p.1、〔 〕内私の補足)
どうやら、ここでも作用が問題の要であるらしい。秋本氏は、この作用がダルマキールティ論理学のキーワードの1つ「目的達成能力」arthakriyaksama(アルタクリヤークシャマ)に連結していることも示してこう述べる。
 「因果効力をもつもの〔=目的達成能力〕が実在である」という定義は、既にヴァスバンドゥ〔=世親〕の『成業論』に現れるが、その確立はダルマキールティ(ca.600-660)によるものであり、経量部の立場に基ずくとされる。(秋本勝「TS三世実有説批判(摘要)」『筑紫女学園大学紀要』3、1991年、p.5、〔 〕内私の補足)
秋本氏はこの箇所の注に梶山雄一博士の著書を示している。重要と思われるので、以下に引用しておこう。
 このような経量部の刹那滅論はすでに『倶舎論』にもあらわれるが、これをひきついだ仏教論理学者によって、仏教哲学最大のトピックの一つとして、時代とともに精密さを加えて、くりかえし論証されることになる。かくして、経量部の刹那滅論はその背後に三時に恒存する法体を全く予想しない、徹底したものとなっている。存在とは現在一刹那の効果的作用性(arthakriya)〔=目的達成能力〕にほかならない。常住不変なるもの
は一時的にも継時的にも効果的作用をなすことはできない。したがってそれは存在しない。この存在性を効果的作用性として定義する経量部の理論は、後代の仏教論理学においてきわめて重要な意義をもつに到るが、その理論はすでにヴァスバンドゥにおいてあらわれている。(梶山雄一『仏教における存在と知識』1983、pp.36-37)
梶山博士の記述からも、複雑に展開していく仏教思想の動向が「三世実有論」の是非に関わることがよく理解出来ると思われる。秋本氏は、「三世実有論」の論点をさらに明確にして、次のように論文を締めくくる。
 三世実有説とその批判は、基本的に有部と経量部との論争であったが、その争点は「知識は必ず実在を対象とするか否か」であった。ただ、現在のものを対象として生じた認識は、知識の自己認識という点では変わりはないとしても、それが生じる契機としての対象を外界にもつと認めるか否かで、経量部と唯識派とに分かれるのである。(秋本勝「TS三世実有説批判(摘要)」『筑紫女学園大学紀要』3、1991年、p.7)
秋本氏の論文には、先行業績として大田心海の名が挙げられている。『真理綱要』の偈の訳であるらしいが、所在が示されていないため、私は未見である。秋本氏は、他に、『真理綱要』に焦点を当てた「仏教における存在の定義」『櫻部建博士喜寿記念論集 初期仏教からアビダルマへ』2002,pp.23-36がある。氏は、以下のような示唆に富む視点を示す。
 有部はあくまで三時にわたってダルマは本質をもつと言う。現在のものはその本質と同じとも異なるともいえない引果力をもつという。これに対して、経量部の立場では存在の本質とは引果力すなわち結果を生じうる能力に他ならない。その因果効力こそが存在の証しである。したがって現在のもののみが実在である。実在は三時か現在かという、この点はいつまでも平行線のままである。しかし、結果を生じうる能力が現在の存在を決定するものであるという点では両者の主張は合致することになったと見ることができる。もちろんこの合致は、シャーンタラクシタがダルマキールティまでの発展を後で一本につなげたからであるとも考えられるが、おそらくダルマキールティの存在の定義はヴァスバンドゥ、サンガバドラ、スティラマティに到る三世実有の議論の展開過程のなかで生まれたものであると筆者は考えたい。いずれにせよ、ヴァスバンドゥの問いに促されて生まれたサンガバドラの引果力はダルマキールティの因果効力へつながり、そのつながりをシャーンタラクシタが自著において明らかにした。そのようなことが拙稿において幾分か明らかにできたのではないかと考える。(秋本勝「仏教における存在の定義」『櫻部建博士喜寿記念論集 初期仏教からアビダルマへ』2002,pp.33-34)
他に、江島恵教氏の研究を、紹介しておきたい。江島氏も、『倶舎論』の諸注釈を詳しく検討し、『真理綱要』との比較を行い、次のようにいう。
 また、シャーンタラクシターカマラシーラのラインについて言えば、言いまわし(wordings)はスティラマティ、プールナヴァルダナに近く、ここで論じることのでき  なかったヴァスミトラの「作用説」の取り扱いはスティラマティに連結するのである。その「三世実有説」への態度は、スティラマティを媒介項として初めて『倶舎論』と連なると考えられる。(江島恵教「スティラマティの『倶舎論』註とその周辺―三世実有説をめぐってー」『仏教学』19,1986,p.21)
また、『真理綱要』が、反説一切有部・反衆賢の立場にあることを示し、こう述べている。
 またPurnavardhana〔プールナヴァルダナ〕は一個所において(Nu 145a8-145b2)、Sautrantika〔経量部〕を批判し、自らがSamghabhadra〔衆賢〕の立場にあることを示している。(江島恵教「スティラマティの『倶舎論』註とその周辺―三世実有説をめぐってー」『仏教学』19,1986,p.32の注(69)、〔 〕内私の補足)
以上によって、私の管見の範囲で『真理綱要』「三時の考察」に関する先行業績の紹介を終える。


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